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July 28, 26
スライド概要
三光院26.7.25開催の講演会 配布用資料 制作:美馬弘
680年伝統のある竹之御所流精進料理を、日本で唯一継承している尼禅寺 比丘尼御所由来の文化を大切にしており、年間を通じて多くのお祀りを行っている 精進料理総本山を標榜した星野香栄御住職様の意向で、各行事お祀りには味覚体験会が付随 「文化は自分達で楽しまなければ続いていかない」
曇華院門跡と三光院の絆 令和 8 年 7 月 25 日 美馬 弘 はじめに 中世以降、宮中において特別の待遇を与えられていた仏教寺院のうち、皇族男子が入室さ れた由緒顕著なものを門跡寺院、内親王・女王の皇族女子が入室された比丘尼御所を由緒寺 院と称している。この比丘尼御所は、一般的に尼門跡と呼ばれているが、この用語は明治時 代に、皇族の出家が禁じられて後のものである。 由緒寺院のうち、大聖寺・宝鏡寺・曇華院(以上は臨済宗) ・光照院(四宗兼学→浄土宗) の四寺院は代々皇女が入室される「四箇寺」と言われ、特に高い格式を誇っていた。東京小 金井市の三光院は、この中の曇華院の法脈を受けた尼寺である。 一、皇女たちが尼僧となった寺 南北朝の動乱を経て、皇室からは皇后と内親王宣下を受ける皇女は途絶した。天皇は側に 仕える女官の典侍らとの間に皇子女を儲けたが、次の天皇となる儲君以外の皇子女は、ごく 幼年期に仏門に入り、僧尼として生涯を送ったのである。 皇女や宮家の王女が入室した比丘尼御所には、皇女たちの居住の御所がそのまま寺院に 改められたものと、既存の尼寺に貴種の女性が住職として入る、あるいは寺地を下賜されて 一寺を建立したものの二つの系統に大別できる。 曇華院は、このうち後者の通玄寺の法灯を伝えている。開山となったのは順徳天皇の皇子 四辻宮善統親王の王子尊雅王の王女智泉聖通(俗名は不明)尼である。智泉は石清水八幡宮 の坊官善法寺通清の妻女であり、その娘良子は足利義詮の側妾となり、良子の子がかの足利 義満である・また、智泉の兄無極志玄は天龍寺二世であり、兄とともに夢窓疎石より臨済宗 の教えを受けた尼僧であった。彼女が建立した通玄寺は、禅宗寺院bの格付けでは「尼五山」 に定められ、景愛寺・通玄寺・檀林寺・護念寺・恵林寺の五寺が京、太平寺・東慶寺・国恩 寺・護法寺・禅明寺が鎌倉に堂宇を構えた。このうち、現存はわずかに東慶寺である(京都 嵯峨野の檀林寺は名前だけで、由緒は繋がらない)。そして曇華院は、通玄寺に設けられた
智泉の隠居所であった。 二、曇華院に入室した皇女―聖秀(蘭渓聖秀)女王 後奈良天皇の皇女聖秀女王は、誕生から半年足らずで「為武家猶子定曇華院」(『系図纂 要』)と、足利義輝の猶子として曇華院に入室が内定した。曇華院は先の建立の由来から足 利将軍家所縁の尼寺であり、足利満詮の息女竺英尼、足利義視息女の聖寿尼が入室し。特に 聖寿の代は室町幕府の政争に巻き込まれるなど、受難の時代であった。 聖秀女王は、皇族の通過儀礼である「髪置の儀(赤子の髪を伸ばす)」を済ませて、つい で「御色直の儀(白い産衣から色付き、刺繍のある着物に替えて、成長を祝う)」を行い、 13 歳になった永禄七年八月に得度して、正式な尼僧となった。これらの儀式は皇室・宮家 で現在も行われている。 この聖秀女王の経て、曇華院には伏見宮家、ついで皇女の院主が迎えられていくことにな る。 三、皇族女子の出家の終り 中御門天皇の皇女聖珊女王は、生誕前から皇女の場合は曇華院に入室が内定しており、そ の後の享保 20 年(1735)2 月には 16 歳にして二品に叙品されている。これは在俗の内親 王が授与される皇族の品階であり、当該期には尼僧皇女の処遇が高くなったこと意味して いる。さらに延享 3 年(1746)12 月、桜町天皇より色衣を勅許された。尼僧は墨染めの法 衣のみで、白も色の内として原則着用は許されなかった。比丘尼御所が「黒御所」とも呼ば れた所以である。例外的に景愛寺寺主になる大聖寺と宝鏡寺の寺主、そして善光寺大本願住 職、伊勢慶光院院主が紫衣を勅許される。曇華院はこれらの尼寺に次ぐ格式を得たのであっ た。聖珊女王が「内親王」とも記録されているのは、このような叙品と色衣勅許のためであ る。 当時は、比丘尼御所四箇寺には、中御門天皇の皇女永皎・理豊・尊乗の各女王に加えて、 霊鑑寺には伏見宮家の宗真、林丘寺には霊元天皇皇女の元秀女王と御宮室が最も栄えた時 期であった。 しかし、聖珊女王が宝暦 9 年(1759)11 月に薨去、その後は皇女の数も減少して、次の
光格天皇皇女見音宮は文政 9 年 8 月に相続を仰せ出だされたが、翌年 2 歳で薨去して三回 忌の 12 年 4 月に秀峰聖清大禅師を追贈されたのみで、院主の実態はなかった。曇華院の御 所号「竹御所」はこうした院主の尼宮不在の場合に付けられたのである。 明治以降の神仏分離令と皇族の出家禁止により、比丘尼御所は公家華族の息女が住持に なる形式となったのである。明治 6 年(1873)に入室の二十八世庭田慈廉尼、二十九世飛 鳥井慈孝尼、三十一世千種慈晶尼は、いずれも公家華族の伯爵・子爵の出身であり、慈孝尼 の甥は近代史学者・京都大学教授であった飛鳥井雅道、宮内庁の掌典次長、橿原神宮宮司を 歴任した飛鳥井雅慶兄弟である。 四、三光院星野香栄尼の業績 「威儀を伝える精進料理」として『尼寺 髪(かざり)を落とした女人たち』(主婦の友 社、平成元年)において、星野香栄尼の活動は紹介されている。後醍醐天皇、後村上天皇、 そして北朝の光厳天皇から帰依を受けた禅僧孤峰覚明の国師号より三光院を院号にしたも のであり、西野奈良栄氏の篤志により「女子教育の場としての尼寺」という発願の復興であ った。 この時に、曇華院より請ぜられたのが米田祖栄尼であり、その精進料理に感銘を受けて弟 子入りしたのが、星野香栄尼であった。あたかも、空前のグルメブームであり、バブル経済 のもと「飽食ニッポン」「輸入した食材が無駄に廃棄」などの食事に対する批判がマスコミ を賑せていた。香栄尼の精進料理研究はベジタリアンやヴィーガンなどの菜食主義の高ま りの中で、海外、特に肥満の人口が多いとされたアメリカなどからも注目されたことを『尼 寺』の記事は窺わせている。 「日本人でなければお精進の味がわからないということはないですね」 白米に味が無いとジャムを付ける欧米人もいるなか、香栄尼のこの言葉は、重要である。 食文化は習慣であり、味覚も養われていくという意味であろう。精進料理の味の基本として、 甘・塩・酸・辛・苦とすがすがしさを残す淡味。これが、国境や人種を超えて通じていくと 結ばれている。 「食は生命にかかわること。そこには尊厳な精神性があり、“威儀”がある。食事は食べ物 と真摯に向き合い、自分を見つめる儀式。」(前掲書 121 頁)。
五、比丘尼御所の料理 大聖寺には「蓮のすもじ(寿司の女房詞)」、宝鏡寺には「お昆布(こぶ)のすもじ」、そ して曇華院には「筍のすもじ」が伝わっていたという(本間寛治『尼御前の昭和・平成・令 和 浄土宗特別寺院得浄明院 光照院門跡』(あんびしゃ文庫、令和 6 年) 。 宝鏡寺の「お昆布のすもじ」については、京都在住の料理研究家・随筆家の大村しげ氏(故 人)が『京の台所詩』 (淡交社、昭和 60 年)にその調理法を記述されている。鯖寿司が京都 の名物であるが、精進料理も禅宗寺院では口に出来ないので、磯の風味のある昆布で酢飯を 巻いたものであるという。大村氏の『京のおばんざい』 (中央公論社、平成 8 年)には筍の 精進だきも掲載されており、参考にされたい。 おわりに 比丘尼御所の研究は、その独自の言葉や習慣もあり、バーバラ・ルーシュ氏やパトリシア・ フィスター氏らの中世日本研究所によって開拓された部分は大きい。さらに原則として非 公開寺院が多く、皇室から寄進などの依拠しており、檀家もなく後継者として入る尼僧の減 少など取り巻く状況は厳しいものがある。 三光院に伝わる精進料理以外にも、曇華院などの比丘尼御所は宮廷文化を乱世の中で守 り、また昭和の戦火を越えて現代に息づいており、特別展や公開の折にはその豊かな文物に 往時の尼宮、住持の尼僧方に思いを馳せていただければと願っている。 参考文献 神田裕理『宮廷女性の戦国史』(山川出版社、令和 4 年) 『尼寺 髪を落とした女人たち』(主婦の友社、平成元年) 『京の雅・旧御所展 未公開の尼門跡の名宝を一堂に』(朝日新聞社、昭和 61 年) 本間寛治『尼御前の昭和・平成・令和 ゃ文庫、令和 6 年) 浄土宗特別寺院得浄明院 光照院門跡』(あんびし