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December 05, 25
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選考結果 【選考結果】 優秀賞 「失語症者の 10 か月とこれから」 (敬称略) 香川県 中村美奈 佳作 「『脳梗塞』後の私の人生」 東京都 髙橋貞之 「脳卒中体験記」 愛知県 高原阿字 「ミシンとの遭遇」 愛知県 近藤浩二 【選考過程】 第 26 回脳卒中体験記「脳卒中後の私の人生」では、応募期間を延長 した結果、11 編の力作が寄せられました。予備選考を経て、入選作と して 4 作品を選出しました。 審査会は 2025 年 9 月 25 日に Web 会議にて開催され、上條美代子 (元国立循環器病センター看護師長)、川勝弘之(日本脳卒中協会 副理 事長)、園田奨(日本失語症協議会 理事・日本脳卒中協会 理事)、萩原 隆史(読売新聞大阪本社 科学医療部長)、藤井由記代(森之宮病院 医 療相談室副部長・日本脳卒中協会 理事)、峰松一夫(医誠会国際総合病 院 病院長・日本脳卒中協会 理事長)による慎重な審議の結果、優秀賞 1 作品、佳作 3 作品を上記のとおり決定しました。 1
目次 優秀賞 失語症者の 10 か月とこれから …… 香川県 中村美奈 3 『脳梗塞』後の私の人生 …… 東京都 髙橋貞之 6 脳卒中体験記 …… 愛知県 高原阿字 8 ミシンとの遭遇 …… 愛知県 近藤浩二 10 ………………………………………………………………… 12 佳作 講評 元 国立循環器病センター 看護師長 上條美代子 公益社団法人日本脳卒中協会 副理事長 川勝弘之 読売新聞大阪本社 科学医療部長 萩原隆史 日本失語症協議会 理事・日本脳卒中協会 理事 園田 森之宮病院 医療相談室副部長・日本脳卒中協会 理事 藤井由記代 公益社団法人日本脳卒中協会 理事長 峰松一夫 奨 2
作品紹介 【優秀賞】 「失語症者の 10 か月とこれから」 香川県 中村 美奈 おかしなことに気付いた。 令和6年2月、風邪で微熱があり、家に一人で臥せっていた午後のこと だ。体がだるく、本でも読もうかと数日前まで読んでいた小説を手に取っ たのだが、続きが分からないのだ。前のページを何度捲っても、覚えがあ る所がどこにもない。頭の中は霞がかかったように混沌としていて、一向 に小説の中に入り込めない。・・・そもそも、何の話だっけ? 思えば、それが前兆だったのかもしれない。なのに、その時も、帰宅し た長女が慌てて救急車を呼ぶのをぼんやり見ていた時も、その病名が思い 浮かぶことはなかった。 「脳梗塞」も、術後初めて知った言葉、「失語症」も。 医師はノートに書きながら、「脳梗塞/1~2週間がピーク/リハビリで 2~3か月で今よりは良くなる/完全には元の状態にはならないかもしれ ない」と私に説明した。まだ 51 歳なのに、本当に私が脳梗塞?元の状態 にはならないって、たったあの瞬間のことで?いやいや、元に戻ることも あるよね?言葉が治らないなら、私が持っているものが殆ど無くなってし まう。 私は、とある地方公共団体で公務員として勤務していた。年を取るにつ れ、業務量も責任も多くなっていたが、「辞めたい」という気にはならな かった。好きだったのだ、仕事が。発症の前の1年間は電車の最終便に走 り込む程忙しかったが、やりがいを感じ、充実していたということは、あ る意味、天職だったのだろう。そして、常に付き添うのは、友であり、武 器であった「言葉」だった。 同僚や上司と協議する、資料を作って会議で司会する、ホームページで 啓発文を掲載する、考えるまでもなく、言葉を使わない仕事なんて一つも ない。おまけに、私の唯一の趣味は「読書」だ。私が何をした?何かに祈 るより、誰かに問い質したかった。 混乱した内に、医師が「ピーク」と言った1週間後には、もう完全に耳 からの言葉が分からなくなった。手術中は分かっていたと思うのに、いつ 3
の間にか医師や看護師の指示が全然分からなくなった。「お名前は?」の 一言さえ。「おはよう」の挨拶さえ。声を出す音は聞こえるのに、内容が 分からない。病後初めて作った文章は、「作文にできない。びっくりとで きないと思う。(原文ママ)」。心の中で思いがあっても、適切な言葉も使 うべき助詞も、働かない頭では見つけられない。だから、当然、話も出来 ない。代わりに、後から後から涙が容易く噴き出した。 発症2か月後の 3 月末、退院。うららかな日差しの午後、数年ぶりに自 転車に乗った。こんな明るい時間に外に出ることは無かったな、と思いな がらペダルを漕ぐと、道端の小さな花の色や草の匂いがはっきり感じられ た。小学生の頃通学路で見た草花だが、大人になってもやはり名前は分か らない。だが、言葉が無くても分かる。のどかな春の風景だ。 夏には自動車の運転ができるようになり、一人で活動する範囲が広がっ た。こちらの店は牛乳が安くて、野菜が新鮮なのはあちらの店、底値はこ れ位、などと今までとは違った知識が頭の中にどんどん増えてきた。同時 に、義父母が家庭菜園で作った見事な野菜を喜んで活用し、新作料理を作 っては家族に披露した。家族が自分でおかずを大盛りにし、「うまい」と 言いながら頬張るのを見ていると、仕事でイベントが成功した時のように、 心の中でガッツポーズする程嬉しくなった。 月日は経ち、発症 10 か月後の現在、分かったことがある。 私は今になっても、普通の会話は出来ない。相手の言葉を必死に耳を澄 ましても、理解できる言葉は一文中ほんの数語、皆無の時もよくある。分 かった言葉から推測した内容が的外れになることや、一語も分からず、相 槌さえできないことなんて日常茶飯事だ。ゆっくり話してくれている家族 の言葉すら、聞こえない、話せない自分が嫌になることもある。 だが、失語症になった後、辛いことばかりではなかった。眩い新緑の光 に目を細めてうっとりしたことも、私が作った料理を食べている家族を見 て「ふふん、美味いやろ?」と鼻を高くしたこともあった。失語症は、私 の喜びを全部奪った訳ではなかったのだ。「仕事が出来ないなら、人生は オワリだ」という凝り固まった考えが少しずつ薄れていき、穏やかな日々 の中で私は顔を上げた。 病院の医師や言語聴覚士から「脳梗塞になると、一度壊死した脳細胞は 治らないが、周りの細胞がその部分を補う」という話を聞き、時折、その イメージを想像する。畑違いの仕事を細胞達が一生懸命頑張っているシー 4
ンが浮かぶ。それは、とても暖かい、希望に満ちた想像だ。私は脳に話し かける。「『回復するのは、2~3か月まで』がセオリーかもしれない。だ けど、その後も周囲の仲間達はコツコツ成長し続けてきた。きっとこれか らも、君達は欲しい力を掴もうと足掻く。大丈夫、何年かかっても待つよ。 待つ間、ささやかでも嬉しいことがきっとある筈だから。」 夜、近所を夫とウォーキングしている。大きなジェスチャーを使って話 す彼の言葉に、私はゆっくりたどたどしい言葉で返す。ボケとツッコミが 完成したのだろう、彼が笑った。 ほら、失語症があっても、ささやかでも嬉しいことが、ここにもある。 5
【佳作】 「脳梗塞」後の私の人生 東京都 髙橋 貞之 脳梗塞になって九死に一生を得ましたが、その代償として運動機能障害 や構音障害などの後遺症で、不自由な生活を余儀なくされました。五十三 歳で発症し、六十三歳になりました。 「何でこんな病気になったのか」と悲観する毎日。「神様仏様、どうか 不自由なこの体を元に戻してください」と祈る毎日。 十年が経つというのに、未だに悲しみや悔しさが込み上げ「生きててよ かった」と素直に喜べずに眠れない夜があります。 発症した当時、私は公務員でした。五十三歳ともなれば、それなりに責 任ある仕事を任され忙しいながらも、公私ともに充実した毎日を送ってい ました。 定期健康診断では「中性脂肪が少々高めなので暴飲暴食に注意しましょ う」とコメントがあるだけで、他の検査項目は見事に基準値内におさまっ ていました。病気の原因は、健康の過信と油断だったのかもしれません。 二年間の休職を経て復職することができましたが、五十八歳で三十四年 間勤めた公務員を退職しました。定年まで勤め上げることができず、職務 を全うできなかったのは残念でしたが、障がい者として「第二の人生」を 送るためには、年齢的にも体力的にも、早い方がいいと判断し退職を決心 しました。 退職後、医薬品を扱う会社に「薬剤師のサポート」として採用されまし た。主な仕事の内容は、在宅や施設に入居している患者さんに、薬剤師と ともに薬を届ける配送兼送迎ドライバーでした。患者さんによっては、お 薬カレンダーに薬をセットしたり残薬の確認をしたり、手が不自由ながら も細かい作業もしていました。 ある寝たきりのご高齢の患者さん宅でのことでした。私はいつものとお りお薬カレンダーに薬をセットしていると、薬剤師さんから「髙橋さん。 患者様がお話しがしたいそうですよ」と声をかけられました。 私は患者さんのベッド脇に移動すると、患者さんは両手を合わせながら 「いつもきれいにありがとうございます」と言いました。 ふと私は、この患者さんについて薬剤師さんから「目が殆ど見えていな 6
い」と聞いていたことを思い出し「きれいに」と表現したことが気になり ました。 帰りの車中、薬剤師さんから「それはきっと、ご家族かヘルパーさんが、 髙橋さんがいつもきれいにお薬をセットされていることをお話しされなが ら、患者様にお薬を飲ませているからですよ」と言われました。 この患者さんの場合は、薬の種類と量が非常に多く、しかも大きさや形、 重さが異なるパッケージのために、それをバランスよくお薬カレンダーに セットするには毎回苦戦していました。私自身もお薬カレンダーを使って 薬を管理していましたので、自宅で練習をしたこともありました。その成 果が、綺麗な形にセットできたのではないかと思います。患者さんから感 謝されたことで、その努力が報われたような気がしました。 次にこの患者さん宅に伺ったのは、配達やお薬カレンダーのセットでは なく「残薬の回収」でした。ご冥福をお祈りいたします。 この会社では、丸三年勤めました。入社当初、ドライバーとしての私に、 走行距離が百キロに満たない新車が与えられました。それから三年の月日 が流れ、最後の配達を終えて店に戻りました。 そして店での最後の仕事が、安全に走ってくれた車両への感謝の気持ち を込めて掃除をすることと、次のドライバーのために運行記録簿や整備日 誌を整理することでした。 その時、あることを発見しました。それはその車両の積算走行距離が四 万キロを超えていたことです。「積算走行距離」というのはその車両が完 成した後、現在まで走行した合計の距離のことです。 四万キロと言えば、地球約一周分の距離に相当します。小さな積み重ね が偉業を達するものだと痛感しました。 身体障がい者として勤めた三年間。この走行距離に加えて、無遅刻無欠 勤、無事故無違反も同時に達成することができました。 「脳梗塞」後の私の人生で、ようやく自慢できることができました。 現在私は福祉施設で、この施設を利用する障がい者のみなさんと一緒に、 箱折りなどの軽作業をしながら、見守りと就労を支援する職員として働い ています。 ここでの生活で、また新たな発見があることを期待しながら、元気に 「第三の人生」を送っています。 7
【佳作】 脳卒中体験記 愛知県 ある日 高原 阿字(ペンネーム) 突然 人生には三つの坂があると云います。「上り坂」に「下り坂」そして人 生の脂が乗り切った五十代に起こる「真坂(まさか)」と云う坂である。 私もその例外ではありませんでした。 五十四歳の時、金沢営業所の責任者として単身赴任中、名古屋出張会議 の日、待てど暮らせど中々姿を現さない私を心配した上司が、私の部下に アパートを見に行かせたら、部屋で倒れている私を発見したのです。不幸 中の幸いでした。原因は長年、健康診断で、高血圧を指摘されていたにも かかわらず、仕事の忙しさにかまけて、治療を怠っていたせいでした。す ぐに金沢の救急病院で手術を受け、麻酔から目覚めた時は、地元名古屋の N 病院にいました。鼻には、管が通され、それを通して胃の中に栄養剤が 送り込まれていたので、鼻が痒いのです。その為、それを掻きむしらない ように、右手に大きな手袋をはめさせてあり、下半身は紙おむつを履いて いました。左半身は蒟蒻状態で、ピクリとも動きません。 再生 やがて私は N 病院から、より専門的なリハビリ治療をする為、H 病院 に転院しました。ここから車いす生活から脱却する訓練が始まったのです。 まず理学療法で足の付け根から足先まで石膏を塗り、左足の装具を作って、 歩く訓練をやり、腕は作業療法でマッサージを受け、洋服を自分で着る訓 練をやりました。さらに言語訓練では、口から食事ができるように、最初 は柔らかいゼリー状のものから、喉を映したテレビ画面を見ながら食べる 訓練をして、ようやく口から食事ができるようになりました。毎日きつか ったですね。 そんなある日、運命的な出会いがあったんです。その日私の担当看護師 がベッド上の栄養剤の袋を取り換えながらたずねたのです。「ところで、 高原さんの趣味って何ですか?」と。見栄っ張りな私は、昔学生時分小説 を書いていたことを思い出すと「小説を書くことかなー」と自慢げに云い ました。すると彼女は、「なら私にその小説を読ませて下さいよ」と云う ではありませんか。私は彼女から再生のエネルギーをもらったのです。聖 書には「人新たに生まれずば、神の国を見ることあたわず」と云う言葉が 8
あります。そうだ、俺は小説家になるために生まれてきたんだ。忘れかけ ていた遠い昔のことをようやく思い出しました。H 病院の看護師の言葉は 天の声でした。そんな時に本が大好きな私は、病院にある図書室で、渡辺 淳一の「ひとひらの雪」と云う二人の女に挟まれ苦悩するモテ男の小説に 出会うのです。本当に面白かった。それとともにこの作家は、自分が出会 った女性を、何と美しい王朝絵巻物の世界に描き込んでいるのだろうと感 心し、この小説を下敷きに、「白山」と云う金沢の土産物屋を舞台にした 兄妹の道成らぬ恋物語を書き始めたのです。残念ながら入院中に書きあげ る事ができず、転院先の R 病院でも書き続けました。 復職後すぐに退職 そうやって転院先の R 病院でも書き続けながら、復職に向けた、本格的 な訓練をやっていた時です。営業セールスに欠かせない注文書の作成の足 し算ができないんです。何と電卓を使っても足し算を間違えてしまうんで す。俺の頭はこんなにもポンコツになってしまったのかと嘆き、毎日保育 園児の孫がやる様な国語と算数の宿題にうんざりしながら、ようやく復職 できました。しかし病後の後遺症は深刻で、もはや車を運転して顧客の自 宅に訪問しての直接販売はできない。その為休眠客に、一日中座ってでき る電話セールに従事したのですが、毎日のノルマを段々果たせなくなって きたのです。とうとう復職後わずか一年で退職を決意しました。 その後ハローワーク通いが始まりましたが、半身不随の体では、雨の日は 傘をさして出社できないのでなかなか再就職先はみつかりませんでした。 障害者に生きる 退職後十二年間、私は週二回の訪問マッサージを受け、デイサービスに も通いながら、毎年二回東京の出版社に自分の書いた小説を送って本物の 作家を夢見ながら、就労支援のB型作業所に通って仕事ができるようにな りました。今では月曜から水曜日までは作業所で障害者仲間と作業し、木 曜日と金曜日はデイサービスで機能回復訓練をやりながら、人生百年時代 のプロ作家目指して充実した日々を送っています。 9
【佳作】 ミシンとの遭遇 愛知県 近藤 浩二 僕は小学 3 年の頃に、授業で家庭用のミシンを習いまして。けど、うま く出来ずに「ぜんぜんダメでムリ!」と思いました。 それから 40 歳の時、ミシンをやりました。 あ、ごめんなさい、自己紹介をさせて下さい。近藤浩二と申します。 昭和 45 年 2 月 23 日、天皇陛下の同じ日生まれ 55 歳になりました。38 歳 の時に脳出血と失語症をわずらいました。当時、トラック運転士をしまし た。 僕は工業用ミシンをやった事がなく、ON と OFF がわかりませんでし た。真っ直ぐはなんとかいいですけど、曲線はクチャクチャでもうムリと 思いました。 当時、車のプラグ(電気を送る為の)仕事をしていたので、僕が「これ、 車のプラグの仕事をやります」って言ったら職員は、「ダメです。ミシン をやりなさい」と言いました。「え~、何で!」っていいました。 「片手でミシンも何もわからずに、針も折れ、もう辞めます、疲れまし た」とはっきりいいました。 そしたら職員は「両手でもちろん出来るけど、近藤君は左手と左足でミ シンを動かせる。そんな人、他にいない」「これ、プロの仕事するかもし れないね」って言われました。「もう辞めた、ではなく、やって見るか」 と、言う事になりました。 そのうちに少しずつ慣れた時、「赤ちゃん布団」の注文をくれるように なりましたが、片手で非常に難しいです。「50 枚できてこれでいい」と思 ったら職員が「70 枚」いや「100 枚」と命令が来ました。 赤ちゃん布団はだいたい、1 枚出来るのに(大きな布団)5 分で、枕は(小 さい物)2 分でやります。うまく調節できるのがすごい進歩が良かったと思 います。 三角形とかぶあついもの、滑りやすい物、などなど、いっぱいあります。 その「生地はどう!」あるいは「こうしたらどうかな?」と勉強をしまし 10
た。その結果、だんだん綺麗になり見学も見てくれて良かったと思います。 今度は「ネクタイを作りませんか?」と言う事になりました。ただ、 「ネクタイ」って面白くないので、「パッチワークで作りましょう」って 事になりました。生地はどうする?厚い物か薄い物か、色はどうする? 接着芯はいいけど、裏地はどうする?などなどいっぱい山ほどあります。 まず、生地を選びます。そして、厚いのはダメなので、うすいのを選び ます。色は、明るい色がいいです。接着芯を張り裏地もやりました。でも 失敗ばっかりです。アドバイスも聞き、そして一週間がかかりました。つ いに完成しました。 でも、満足ではなく、周りの人がよくなければ意味がないです。見学、 講師、イベントとみんなに見せてやりました。そしたらみんなが、「これ 凄いね」「買ったものじゃなくオリジナルだね」などなどいっぱいでした。 もう嬉しかったです。 みんなか応援して、みんな、友達、職員、親友だからこそ愛してくれか らこそ、僕はこたえたいと思います。まだまだ、不十分ですけど、ミシン は大好きなので、目一杯よろしくお願いします。 ありがとうございました。 11
講評 元 国立循環器病センター 看護師長 上條美代子 今年は作品数が少ないと伺いましたが粒よりの作品と感じました。私は 過酷だった乙巳の夏に精も根も尽き果てる思いでしたが、体験記それぞれ の「前向きさ」に蘇りました。 高橋さんのお名前に、あぁエントリーして下さっている、良かったと思 ったのは私だけではないでしょう。第二第三の人生を人に喜ばれたいと小 さな積み重ねを爽やかに、達人の域の生き方です 私の推薦作品は3部。北島さんは失語症の方の現実の厳しさがつきつけ られて重要なリハビリを獲得するため、拡充するための問題提起ほかアピ ールが素晴らしかったです。中村さんは言葉を武器にして来られたと仰る だけあってきびきびしたリズム、豊かで深い感性に引き込まれました。巧 いなぁ読ませるなぁと思いました。喪失の多さ深さを前に具体的な難儀な 日々を網の目のようなポジティブさが支えているのが分かる。「ささやか でもうれしい事がきっとある筈」これは他の病気の方々にも共通する希望 を紡ぐ呪文だと思います。 入選の高原さんは就労の難しさの中、自分の強みを思い出す看護師の 「天の声」と捉えました。それらを糧にしてプロ作家を目指す姿に拍手を 送ります。 近藤さんは「左手と左足でミシンを動かせる。そんな人、他にいない」 職員のやる気を引き出す言葉に応え続けた過程が実直に描かれ思わず貰い 泣き。高橋さんとも共通項があり、職業訓練の重要性と有効性を示されま した。 このように、「脳卒中体験記」は、今回もたくさんの示唆と勇気を与え てくれました。私は、脳卒中を体験された方々やご家族そして関係者の支 援だけでなくファンでありたいと考えます。 公益社団法人日本脳卒中協会 副理事長 川勝弘之 ◆以心伝心の作品 今年の体験記は少数精鋭でした。毎回拝読して感じるのは、各経験者と も発症して同じ気持ちを持ちつつも、その後の回復には周囲の家族、親戚、 同僚、医療従事者などいろんな方々の支援、応援を受けて、ある人は比較 的早く、ある人は緩やかに以前の生活に向かっておられる姿があるという ことです。 12
私も脳梗塞経験者で退院後にそれまでの人生、生活を振り返り、反省を 繰り返しました。今回の応募作に私の反省、抱いた想いと全く同じワード がたくさん出て来て驚いた作品がありました。佳作の髙橋貞之さんの作品 です。『何でこんな病気になったのか』『神作仏様どうか不自由なこの体を 元に戻してください』私も神頼みの気持ちが強くなったことを思い出しま した。『病気の原因は、健康の過信と油断だったのかもしれません』私は 最近の講演では元気と健康は違うとお伝えしています。 髙橋さんは復職されて障碍者として『第二の人生』を始められました。 薬剤師サポートの仕事で携わった患者さんとのやり取りは脳卒中経験者な らではの配慮が随所に現れて、丸三年勤められました。その時に感じられ た『小さな積み重ねが偉業を達するものだ』という気持ちは脳梗塞を経験 したからこそ感じ取られた達成感だったのだと思います。脳卒中後の人生 でようやく自慢できることが出来た、と感じられたとありました。私も全 く同じ気持ちを持ったことがあり、正に以心伝心の作品だと感じました。 仕事を終えられた今は『第三の人生』を送られているようですが、私も見 習いたいものです。 人はいろんな人生経験を積んで学んで成長しやがて人生を終えます。本 審査にて脳卒中になっても悲しく厳しい日々だけではない事をたくさんの 作品から学び勇気をもらっています。このため今後も同じ気持ちにさせて いただきたいと願う次第です。これからも多くの作品のご応募をお待ちし ています。 読売新聞大阪本社 科学医療部長 ◆前向きな姿 萩原隆史 他の患者さんの希望に 今回寄せられた体験記には、発症当時の体のつらさや心の揺らぎのほか、 入院中のリハビリや退院後の社会復帰への道のりなどが克明かつ丹念に描 かれている作品が多く、まるで自分もその場に立ち会っているような感覚 で読ませていただきました。 中でも優秀賞に選ばれた中村美奈さんの作品は、文章の構成や表現、言 葉の選び方が、冒頭のひと言から締めくくりの一文に至るまで秀逸でした。 悔しさやもどかしさだけでなく、退院後に感覚が研ぎ澄まされていく様子 や、顔を上げて前向きに進む場面を瑞々しい感性で描写し、やわらかな筆 致の中にも、他の患者さんの希望となる強いメッセージ性が込められてい ました。 天職となった仕事に励んでいた当時、「常に付き添うのは、友であり、 13
武器であった『言葉』だった」という人が、失語症になった現実は察する に余りあります。ですが、この作品からは、一つひとつの言葉が今も変わ らぬ無二の「友」であることがよく伝わってきました。 佳作の3作品も、とても困難な状況の中、自分にできること、自分がす べきことに前向きに取り組む姿がまぶしい内容でした。 高橋貞之さんと近藤浩二さんは、退院後の「第二の人生」での奮闘を描 きました。高橋さんは薬の配送、近藤さんは赤ちゃん布団やネクタイの縫 製作業に人一倍尽力しており、そのひたむきで実直な仕事ぶりが心に響き ます。ともに重い後遺症を抱えながらも、人の役に立ちたい、期待に応え たいという思いにあふれる内容で、爽やかな読後感をもたらしました。 高原阿字さんは、人生の転機となった担当看護師との会話の一コマを、 豊かな感性と巧みな文章力で表現しました。何気ない会話でも「再生のエ ネルギーをもらった」と前向きに捉えるかどうかで、その後の人生は大き く変わります。他の患者さんの励みにもなる、晴れやかな作品でした。 日本失語症協議会 理事・日本脳卒中協会 理事 園田 奨 ◆言葉を超えて伝わる想い 日本脳卒中協会が主催された脳卒中体験記「脳卒中後の私の人生」にお いて、この度初めて審査員を務めさせていただき、大変光栄に存じます。 応募された作品群は、どれもが筆者の方々の魂が込められた、読む者の胸 を打つ力作揃いでした。 脳卒中を経験された方の中には、失語症をはじめとする言語機能の障害 により、「話す」ことだけでなく「書く」ことにも大きな困難を抱えてい らっしゃる方が多くいます。それにもかかわらず、ご自身の複雑な想いを、 知恵と勇気を振り絞って文章として表現し、私たちに届けてくださったこ とに、心からの敬意を表します。 それぞれの体験記からは、病を得る前の「病前」の自分と、病を乗り越 えて今を生きている「病後の第二の人生」という、鮮やかな二面性が強く 感じられました。失われたものへの葛藤や、以前の自分との比較による 「陰」の部分、そして、わずかな回復への喜び、支えてくれる人々への感 謝、そして何より「今」を生きるという強い意志から生まれる「陽」のエ ネルギー。これらの陰陽が織りなすコントラストこそが、体験記に深みと 説得力を与えています。文字の端々からは、まさに「精一杯絞り出した」 言葉の重みが伝わってきました。 昨今、私たちの生活には、ChatGPT のような生成 AI が急速に入り込ん 14
できている時代を生きています。このようなテクノロジーの発展は、時に 我々の役割を脅かすものとして語られますが、私は逆に大きな希望も感じ ています。今後、この生成 AI が、言葉の障害を抱える方々が、これまで 十分に伝えられなかった複雑な感情や、心に秘めたメッセージを、より自 然で、より豊かな表現で私たちへ伝え届けるための強力な手助けとなる時 代が訪れるかもしれません。それは、今回の体験記で示されたような、 「言葉を超えて伝わる想い」を、より多くの人に届ける未来を意味します。 ご自身の体験を分かち合い、他の人への希望の光となる勇気ある執筆者の 皆様に、改めて感謝申し上げます。 森之宮病院 医療相談室副部長・日本脳卒中協会 理事 藤井由記代 すべての体験記を拝見し、どの作品からも実体験を通して新たな人生を 生きておられる力強さが感じられ、病やその後の日常生活・人間関係など うまくいかない経験を重ね乗り越えられた先の景色が、優しく温かいもの になるんだ…という印象を受けました。ご自身や周囲の方々に対して「自 分はここまで来たから大丈夫…もうきっと大丈夫…」との思いが込められ ているようにも感じられ、読んだ方が勇気づけられる作品ばかりだと感じ ました。 薬を届けるという仕事を、ただ届けるだけでなく、なんのために届け る・相手の方はどう受け取っている・どう届けることが必要か…とご自身 の経験も経て掘り下げて解釈され、優しさや幸せを願う使命をもって、丁 寧に対応されているエピソードには、脳卒中を経験されたことがこんな素 晴らしい仕事に結びつくのかと感銘を受けました。 ご自身の生活・人生をかけて細部まで管理されていたお仕事への関わり が難しくなった後、周囲の方のサポート・関わりを温かく受け止め、自分 がいるときよりいい会社になった、と認め表現されているエピソードから は、ご自身が発症やその後の経過でつらさ・しんどさを経験した時間と併 行して、社員たちも同様につらい・しんどいを乗り越えてくれたことへの 感謝が言葉にされているように感じました。患者も家族も社員も、同じ時 間を同じように困難さを体験し乗り越えたお互いがサバイバーとなり、新 たな絆が生まれ、病を通してご自身もご家族も会社も再生するんだ…とい う力強さを感じました。 投稿してくださった皆様に心より感謝申し上げます。有難うございまし た。 15
公益社団法人日本脳卒中協会 理事長 峰松一夫 ◆脳卒中体験記の未来 コロナ禍後、体験記応募状況が芳しくなく、募集期間を延長しました。 以前のレベルには程遠いものの、再延長を諦め、審査を実施しました。優 秀賞 1 件、佳作 3 件と少なく、作品集刊行は延期しました。それでも応募 いただいた作品は、闘病生活、リハビリテーション、社会復帰などの体験 を生き生きと伝えています。 優秀賞に選ばれた中村美奈氏は、脳梗塞が原因で「失語症」となり、回 復を目指した道のりを描きました。臨場感あふれる作品で、私自身、「本 当に失語症の方の作品か?」と疑ったくらいです。前回の脳卒中体験記優 秀賞も、失語症の方が受賞しましたが、偶然ではないようです。 失語症の最大の原因は脳卒中(脳梗塞、脳出血)です。世間には十分に 知られておらず、障がい認定でも不公平な扱いを受けているとして問題視 されています。脳卒中・循環器病対策基本法の付則に、「失語症対策を進 める」ことが明記されましたが、具体的対策は未着手です。日本脳卒中協 会でも問題視し、日本失語症協議会などとともに国への働きかけを強めて います。前回、今回の体験記優秀賞は、失語症の正しい理解に役立つでし ょう。 佳作 3 作品は、いずれも脳卒中からの復職体験が書かれています。復 職・復学問題も、重大なテーマです。これらの作品は、その問題解決のヒ ントになるでしょう。 選外になりましたが、私が強く心を打たれた作品、HY 氏の「風の色」 を紹介します。支援学校の副校長だった HY 氏は、脳卒中後の苦しい闘病 生活、リハビリ訓練を経て職場復帰を果たしました。定年後は短歌の道に 目覚め、障がい者支援を歌ったり、高野山金剛峰寺や地元伝承館で健常者 の風景写真家との共同作品展を開催したりと、健常者と障がい者の共生社 会の未来像を示しています。最近、俳句・短歌、絵画、彫刻、陶芸、書道、 音楽などの脳卒中体験者総合作品展を検討中ですが、本作品を読み、その 思いを強くしました。皆さんはどう思われますか? [発行] 公益社団法人 日本脳卒中協会 〒545-0052 大阪市阿倍野区阿倍野筋 1-3-15 共同ビル 4 階 TEL:06-6629-7378 FAX:06-6629-7377 URL:https://jsa-web.org ※ 本書の内容を転載・引用される場合は、公益社団法人日本脳卒中協会まで ご連絡ください。 16