国文学研究資料館蔵 群書類従本『時秋物語』

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January 23, 25

スライド概要

『触読ジャーナル』Vo2の付録である国文学研究資料館蔵の群書類従本『時秋物語』について、従来の「本を読む」だけではなく、「触る」・「聞く」・「読む」の3点に着目し、古典文学の享受方法を考察したものです。
『時秋物語』の「変体仮名翻字版」(くずし字版)データ、校訂本文、現代語訳、現代語訳メモです。
This paper examines how to enjoy classical literature by focusing on the three points of touching, listening, and reading, as well as the traditional reading of books, with reference to "The tale of Tokiaki," a collection of books owned by the National Research Institute of Japanese Literature, which is an appendix to "Touch read Journal" Vol 2.
These are the "variant kana transliterated version" (Kuzushi version) of "The tale of Tokiaki," the revised text, the modern language translation, and the modern language translation notes.

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各ページのテキスト
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古写本『源氏物語』触読ジャーナル Vo2〈付録〉 国文学研究資料館蔵 群書類従本『時秋物語』 変体仮名翻字版(くずし字版) ・校訂本文・現代語訳データ 国文学研究資料館が公開する「日本古典籍総合目録/館蔵和古書目録データベースの画像のオープン データ」を使用し、群書類従本『時秋物語』 (請求記号:ヤ 0-25-1~102 のうち巻 483)について、変体 仮名翻字版(くずし字版)の本文、校訂本文、現代語訳および現代語訳メモを掲載する。 墨字を使用する場合と底本である「国文学研究資料館蔵 群書類従本『時秋物語』 」を立体コピーして 使用する場合は、変体仮名翻字版・校訂本文・現代語訳の 3 種類を、音声のみで確認する場合は変体仮 名翻字版の部分をとばして、校訂本文と現代語訳で確認をしてみてほしい。変体仮名翻字版のデータを 音声でそのまま確認する場合は、正確に文字の表記が伝わりづらいという難点があるためである。変体 仮名翻字版の部分は、あくまで底本を立体コピーしたものを確認する際に使用するために掲載している のでご了承願いたい。この本の書誌については、本文中の「2 群書類従本『時秋物語』とはどのような 本であるのか」の章のうち「(3)国文学研究資料館蔵 群書類従本『時秋物語』について」を参照して ほしい。それでは最初に凡例をあげておく。 1 作品情報 1.1 作品 1 巻、説話。 源義家[みなもとのよしいえ]の弟である義光[よしみつ]は、管弦〔笙・しょう〕を豊原時元 [とよはらのときもと]という人物に学んだものの、兄が東国で清原武衡[きよはらのたけひら] ・ 家衡[いえひら]などの勢力を相手に苦戦していると聞き、左兵衛尉〔さひょうえのじょう〕の 職を辞職して急いで東国へ向かう。幼い頃に父時元を亡くした時秋[ときあき]は、父が秘伝と していた曲を義光に教えてもらおうと後を追った。義光は、自分が死を覚悟のうえで都を出てき ていることを時秋に伝え、彼に都へ帰るように言うものの、その熱意にうたれて、足柄山〔あし がらやま〕で彼に曲を教える。その後、時秋は都へ帰ることとなる。ちなみに、この出来事に関 する史跡が存在する。 ①新羅三郎義光吹笙之石(神奈川県駿東郡小山町竹之下・足柄峠) 毎年 9 月第 2 日曜日に、上記の説話にちなんだ笛まつりが開催される。 ②三柱神社(長野県安曇野市三郷明盛字道下 4868) 義光を祭神とする神社で、彼が時秋に曲を伝授する場面の銅像がある。 1.2 成立 橘成季により建長 6(1254)年に編纂された、 『古今著聞集』巻 6 にこの話が収録されているた め、鎌倉時代初期には成立していたとされる。編者不詳とされる。また、文章である詞書に絵が ついた絵詞が存在し、古画の作品目録である『考古画譜』巻 8 に「時秋繪詞 1 一巻」という内容

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が記載されている。この文献で引用されている美術作品の目録である『画図品目』によると、絵 は常盤光長[ときわみつなが・土佐派の絵師]で詞書は藤原為家[ふじわらのためいえ]による ものという。同じく引用されている美術作品の目録である『本朝画図品目』によると絵は藤原信 実[ふじわらののぶざね・似絵で著名な隆信の息子]によるという。 (黒川春村稿・古川躬行 纂 輯・黒川真頼補『増補 考古画譜』巻 8、67-69 頁、有隣堂、1901 年) 1.3 主人公 豊原時秋[とよはらのときあき]について 生没年:康和 2(1100)年〜未詳 物語の主人公である楽人。笙の秘曲を習うために足柄山まで源義光を追ってくる。 『時秋物語』 および『豊原氏系図』では、豊原時元の息子にあたる。しかし実際はいくつかの矛盾点があ る。まず、義光が奥州で起こっていた「後三年の合戦」 〔ごさんねんのかっせん〕に参陣する ため東国へ向かったのは、寛治元(1087)年である。このとき父の時元は存命で時秋自身は まだ生まれていない。この矛盾点は、物語の根幹である「時秋が亡き父時元が遺した曲を義 光に教えてもらう」という話が成り立たなくなるという重要なことであるものの、ここでは 指摘にとどめておきたい 。 『鳳笙師伝相承』では時秀[ときひで]の息子で篳篥〔ひちりき〕 を相伝したとされている。 1.4 類似する話と人物・場所等の整理について 授 け た 授けられた 舞台の 出典 人物 授けた物 人物 場所 『時秋物語』 源義光 豊原時元の秘曲 豊原時秋 足柄山 『古今著聞集』巻 6 源義光 豊原時元の秘曲 豊原時秋 足柄山 豊原時元 逢坂関 豊原時元の秘曲・笙の名器交丸 『続教訓抄』巻 11 源義光 〔まじりまる〕 豊原時忠(時元 記載 『文机談』 源義光 入調(曲) の兄) 『今鏡』巻 7 豊原時忠(時元 記載 「村上の源氏 新枕」 源義光 1.5 ナシ 笙の名器まじりまる の兄) ナシ 諸本情報 『日本古典文学大辞典』1を参考に記載した。 1.5.1 群書類従本 藤原為家が書いたという奥書を持つ本である。所蔵数が多いためここでは、その一部を掲載し 1 『日本古典文学大辞典』第 4 巻 450 頁(岩波書店、1984 年) 2

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た。 A 国会図書館蔵(請求記号 127-1)第 607 冊 ※文政 3(1820)年跋、 B 国立公文書館蔵(内閣文庫 請求記号 215-0002)第 483(No.1286) ※同上 C 大洲市立図書館、矢野玄道文庫 13-1 ※同上、上記 C は、国文学研究資料館の国書データベースで「時秋物語」と検索すると表示さ れる書籍である。 1.5.2 群書類従本(活字本) A『群書類従』第 18 輯 488-489 頁(250 コマ目) (経済雑誌社、1893 年) ※Web 閲覧可 B『群書類従』第 27 輯(雑部)449-450 頁(続群書類従完成会、1955 年) C『群書類従』第 27 輯(雑部)449-450 頁(続群書類従完成会、1963 年)※3 版 D『群書類従』第 27 輯(雑部) (八木書店古書出版部〈オンデマンド〉 、2013 年)※1980 年版 E『新校群書類従』第 21 巻雑部 228 頁 (143 コマ目)(内外書籍、1930 年) 1.5.3 東北大学狩野文庫蔵写本 文化元(1804)年に書写された『九品和歌』 ・ 『正治奏状』が所収されている本に掲載されてい る。 『前十五番歌合並後十五番歌合』(準貴狩野文庫:4/10323/1) 1.5.4 徳川斉昭[とくがわなりあき・水戸藩主で 15 代将軍慶喜の父]編『八洲文藻』所収本 A 徳川ミュージアム、彰考館文庫,和/七 B 徳川ミュージアム,彰考館文庫,和/七( 『八洲文藻』後編草稿) C 宮内庁書陵部蔵(図書寮文庫:函架番号 452・7) ※天保 14(1843)年、御所本 ※いずれも Web 閲覧可(国文学研究資料館の国書データベース 3416-3420 コマ目) 1.5.5 大洲市立図書館、矢野玄道文庫 大洲市立図書館、矢野玄道文庫 1.5.6 盛岡市中央公民館 A 盛岡市中央公民館,マイクロ収集,591 大八洲文藻 B 盛岡市中央公民館,マイクロ収集,592 八洲文藻 1.5.7 国会図書館蔵『鶯宿雑記』巻 215(請求記号:238-1) ※Web 閲覧可、30 コマ目ー32 コマ目 2 凡例 2.1 くずし字データ 2.1.1 『時秋物語』を変体仮名のまま翻字したものである。漢字が漢字として使われている箇 所には【】を付けた。 3

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2.1.2 〈行末左〉 ・ 〈行末右〉については、1 行の末尾にある字の左側または右側に文字が書かれ ていることを表す。 (例)やくなしと【頻】尓とゝむ累をき可須しゐ弖志多/志多〈行末左〉 2.1.3 〈丁末左〉 ・ 〈丁末右〉については、1 丁の末尾にある字の左側または右側に文字が書かれ ていることを表す。 (例)理にまけてのほりにけり/けり〈丁末左〉 2.2 通常の翻字データ 変体仮名として使われている漢字をひらがなに直した形式の翻字の事である。 2.3 校訂本文 2.3.1 基本方針 1901 年(経済雑誌社刊) 、1952 年(続群書類従完成会刊)の活字本を参照し、句読点を 入れた。 2.3.2 本文の記号 本文にある記号はそのまま記載している。 2.3.3 旧字体と新字体 漢字の表記は本文の字体にあわせている。 2.3.4 会話文 基本的にくずし字データの切れ目にあわせた。 2.3.5 ふりがな 人名・地名など読みにくいと思われる漢字にふりがなをつけた。 人名に対するふりがなは[ ]をつけた。 (例)義光[よしみつ] 地名やその他に読みにくいと思われる漢字には〔 〕をつけた。 (例)縹〔はなだ〕 2.3.6 校訂本文の記号 適宜、句読点・濁点・会話記号等をつけた。 2.4 現代語訳 2.4.1 補足 現代語訳で、主語が抜けている箇所及び補足が必要な箇所については、 ( )を用いて補 った。 ( )の中にさらに説明が必要な場合は【 】を使った。 2.4.2 現代語訳の行 現代語訳の表示は、校訂本文の行にあわせるようにしているが、画面の関係でずれる場合 があるのでご了承願いたい。 2.5 本文にある注 群書類従完成会から 1952 年に出版された群書類従本には、本文の右横に注がついている箇所 4

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がある。今回の底本である国文学研究資料館蔵の『群書類従』に注は存在しない。しかし、 資料として 1952 年に出版された群書類従本の注も、現代語訳の項目の下に別項目として立項 した。なお、当該の注を利用した現代語訳も、その該当箇所のみ掲載した。 (例)「左兵衛尉」 に異文表記ナシは、 「異文表記ナシ」とあるので異文表記がないという注が あることをさす。 (次ページから本文) 5

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国文学研究資料館蔵 群書類従本『時秋物語』 扉(底本:5556 コマ目) 表紙(底本:5555 コマ目) ・ 『群書類従』 ・人間文化研究機構 ・クリエイティブ・コモンズ表示 4.0 ライセンスCC BY-SA (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/deed.ja) ☆底本 ・書名: 『群書類従』 ・所蔵:国文学研究資料館、南葵文庫旧蔵 ・形態:刊本 ・書誌 ID 200014982 ・書誌 URL:https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200014982/ ・DOI:https://doi.org/10.20730/200014982 ・Manifest URI: https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200014982/manifest ・和古書請求記号 ヤ 0-25-1~102 ・形態 26.3×18.0cm,665 冊 ・残欠あり ・備考: 『群書類従』第 483 雑部 38(現在は 5555-5560 コマ目、本文は 5557 コマ目から) 扉には「東京帝国大学図書館」 、1 丁表に「旧和歌山徳川氏蔵」と「南葵文庫」の印がある。 「旧 和歌山徳川氏蔵」は 15 代当主徳川頼倫の印である。 6

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変体仮名翻字版(くずし字版) ・校訂本文・現代語訳データ 1. 源義光は兄義家の救援のため辞職して東国へ向かう 画像(1 丁表/底本:5557 コマ目) 1.1. 変体仮名翻字版(くずし字版) 【甲斐守】 【義光】 【左兵衛尉】尓【侍】しとき古の可見 【陸奥守】 【義家】 【朝臣】 【武衡】【家衡】 【等】をせ免介累 越【京】尓【候】弖徒多遍きゝ介り【御】いとま越【申】 てく多らんとし介累を【御】ゆるしな介れ者【兵衛尉】 を【辞】し【申】て【陣】尓【絃袋】を可介弖【馳】りく多り 介る 1.2. 通常の翻字版 甲斐守義光左兵衛尉に侍しときこのかみ 陸奥守義家朝臣武衡家衡等をせめける を京に候てつたへきゝけり御いとまを申 てくたらんとしけるを御ゆるしなけれは兵衛尉 を辞し申て陣に絃袋をかけて馳りくたり ける 7

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1.3. 校訂本文 甲斐守2〔かいのかみ〕義光3[よしみつ]、左兵衛尉4〔さひょうえのじょう〕に侍りし時、兄(こ のかみ) 陸奥守5〔むつのかみ〕義家6[よしいえ]朝臣7〔あそん〕 、武衡8[たけひら] ・家衡9[いえひら] らを攻めける を、京に候て伝え聞きけり。御いとまを申し てくだらんとしけるを、御ゆるしなければ、兵衛尉 を辞し申して、陣〔じん〕に絃袋10〔つるぶくろ〕をかけて、馳せりくだり ける。 1.4. 現代語訳 甲斐守〔かいのかみ〕の源義光[みなもとのよしみつ]が、左兵衛尉〔さひょうえのじょう〕 としてお仕えしていた時、兄である 陸奥守〔むつのかみ〕源義家[みなもとのよしいえ]朝臣〔あそん〕が、清原武衡[たけひら] 家衡[いえひら]たちを攻めたの を、京にいた時に伝え聞いた。 (お仕えしている白河上皇に)お休みをいただくことを申し て東国へくだろうとしたのを、御許しがなかったので、兵衛尉の職 を辞め申し上げて、辞表の意味で左兵衛府の陣に絃袋〔つるぶくろ〕を返して急いで東国へ下っ た。 2 甲斐守(6.1.1) 義光(6.1.2) 4 左兵衛尉(6.1.4) 5 陸奥守(6.1.5) 6 源義家(6.1.6) 7 朝臣(6.1.7) 8 武衡(清原武衡、6.1.8) 9 家衡(清原家衡、6.1.9) 10 絃袋(6.1.10) 3 8

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2. 近江国で義光は豊原時秋に遭遇する(1 丁表-1 丁裏) 画像(1 丁表/底本:5557 コマ目) 画像(1 丁裏/底本:5558 コマ目) 2.1. 変体仮名翻字版(くずし字版) (1 丁表・6 行目) あふ見のく尓可ゝ見能むまや能古なた尓て (1 丁裏・1 行目-10 行目) 者な多能ひとへ可里きぬ【青色】能【袴】き弖日き いれ【烏帽子】し多る【男】をくれしと【駒】尓むちう 9

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弖【来】累阿りあやしうおもひ弖【見】れ八 【豊原時秋】なりあれ者い可尓な尓し尓き多里 多累そとゝ日介れ者と可くの【事】者い者て多ゝ とも徒可うま徒累へしと八可りそい日介累 古の多ひの【下向】ものさ八可しき【事】 【侍】弖なれ 八ともなひ多ま者ん【事】 【尤】 【本】いなれとも やくなしと【頻】尓とゝむ累をき可須しゐ弖志多/志多〈行末左〉 ひき尓介り 2.2. 通常の翻字版 (1 丁表) あふみのくにかゝみのむまやのこなたにて (1 丁裏) はなたのひとへかりきぬ青色の袴きてひき いれ烏帽子したる男をくれしと駒にむちう て来るありあやしうおもひて見れは 豊原時秋なりあれはいかになにしにきたり たるそとゝひけれはとかくの事はいはてたゝ ともつかうまつるへしとはかりそいひける このたひの下向ものさはかしき事侍てなれ はともなひたまはん事尤本いなれとも やくなしと頻にとゝむるをきかすしゐてした/した〈行末左〉 ひきにけり 2.3. 校訂本文 近江国〔おうみのくに〕に鏡の駅11〔かがみのうまや〕のこなたにて、 縹12〔はなだ〕の単13〔ひとえ〕・狩衣〔かりぎぬ〕 、青色の袴を着て、引き 入れ烏帽子14〔ひきいれえぼし〕したる男、遅れじと駒に鞭打 て来るあり。あやしう思ひて見れば、 豊原時秋[とよはらのときあき]なり。 「あれはいかに。何しに来たり たるぞ」と問ひければ、とかくの事は言はで、 「ただ ともつかうまつるべし。 」とばかりぞ言ひける。 11 近江国鏡の駅(6.2.1) 縹(6.2.3) 13 単・狩衣(6.2.4) 14 引き入れ烏帽子(6.2.5) 12 10

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「このたびの下向〔げこう〕、もの騒がしき事侍りてなれ ば、ともなひ給はん事、もっとも本意〔ほい〕なれども やくなし。 」としきりにとどむるを聞かず、強いて慕 ひ来にけり。 2.4. 現代語訳 近江国〔おうみのくに〕の鏡の宿〔かがみのしゅく〕のここで、 薄い藍色で裏地のつかない狩衣〔かりぎぬ〕を着て、青色の袴を履き、頭に 深く烏帽子〔えぼし〕をかぶった男性で、遅れないようにしようと馬に鞭を打っ て来る人がいた。義光は不思議に思って姿を確認すると、 豊原時秋[とよはらのときあき]である。 義光は時秋に「いったいどうしたのですか?何をしに来た のですか?」と問うと、時秋は何やかにやと理由は言わないで、 「ただ 供としてお仕え申し上げます。 」とだけ言った。 義光は「このたび東国へくだることは、火急のことがあったから なので、お連れしたい事は、本当の気持ちですけれども あなたにとってはためにならないことです」とたびたび引きとめたものの聞かず、無理矢理ついて 来たのであった。 3. 義光は都へ帰るようにすすめるが時秋は納得しない(1 丁裏-2 丁裏) 画像(1 丁裏-2 丁表/底本:5558 コマ目) 11

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画像(2 丁裏-3 丁表/底本:5559 コマ目) 3.1. 変体仮名翻字版(くずし字版) (1 丁裏・10 行目) ち可らをよ者弖【諸共】尓ゆく/\ (2 丁表・1 行目-10 行目) 【相模】のく尓【足柄山】尓き尓介り古ゝ尓弖よし 見徒【馬】を日可へ弖い者くとゝ免【申】せとももち ひ多ま者て古れまてともなひ多まへる【事】 そ能古ゝろさし布可しさりな可ら古のやま能 せき堂や寿くとを寿【事】もあらしよし/よし〈行末左〉 三徒【者】 【所職】を【三拝】【申】弖見や古をいてし より【命】越なきもの尓なしてま可里む可へ八 い可なるせき尓ても者ゝ可累ましか介や布り弖 とをるへしそれ尓者そ能やうなし【是】よ りか遍り多まへといふを【時秋】なをう介ひ可 (2 丁裏・1 行目) 須ま多い布【事】もなし 3.2. 通常の翻字版 (1 丁裏) ちからをよはて諸共にゆく/\ 12

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(2 丁表) 相模のくに足柄山にきにけりこゝにてよし みつ馬をひかへていはくとゝめ申せとももち ひたまはてこれまてともなひたまへる事 そのこゝろさしふかしさりなからこのやまの せきたやすくとをす事もあらしよし/よし〈行末左〉 みつは所職を三拝申てみやこをいてし より命をなきものになしてまかりむかへは いかなるせきにてもはゝかるましかけやふりて とをるへしそれにはそのやうなし是よ りかへりたまへといふを時秋なをうけひか (2 丁裏) ずまた言ふ事もなし。 3.3. 校訂本文 (1 丁裏-2 丁裏) 力及ばで諸共に行く行く、 相模国〔さがみのくに〕足柄山15〔あしがらやま〕に来にけり。ここにて義 光[よしみつ] 、馬をひかへていわく、「とどめ申せども、用 ひ給はで、これまでともなひ給へる事、 その志深し。さりながらこの山の 関、たやすく通す事もあらじ。義 光は所職16〔しょしき/しょそく〕を辞し申して17都を出し より、命をなきものになしてまかり向かへば、 いかなる関にてもはばかるまじ。かけ破りて 通るべし。それにはそのやうなし。これよ り帰り給へ。」と言ふを、時秋、猶うけ引か 給はず。言ふ事もなし。 3.4. 現代語訳 義光[よしみつ]は時秋を説得するもののやむをえずに一緒にくだって、 16 17 所職(6.3.3) 三拝申して(6.3.4) 13

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相模国〔さがみのくに〕にある、足柄山〔あしがらやま〕に来た。ここで義 光は、馬を引き止めて言うことには、「私がお止めしたのに、話を聞き入れられず、 ここまで付いていらっしゃったこと、 その心持ちは深いものです。しかしこの山の 関は、容易に通してはくれないでしょう。私、義 光は職務を辞任申し上げて都を出てから、命を無いものとして東国へ向かったので、 どのような関であっても遠慮をすることはないでしょう。かけ破って 通るつもりです。あなたにはその必要がありません。ここか ら帰りなさい。 」と言うのを、時秋は、それでもやはり承知 しない。また言うこともない。 ※義光の話に不服な時秋は返事などをしない。 4. 足柄峠で義光は時秋に秘伝の曲を伝授する(2 丁裏-3 丁表) 画像(2 丁裏-3 丁表/底本:5559 コマ目) 4.1. 変体仮名翻字版(くずし字版) (2 丁裏・1 行目-10 行目) そのとき【義光】ときあ き可おもふところをくむ弖見ちより寿古 しい里弖【木陰】尓うちより志者きり者ら者せ/者せ〈行末左〉 【馬】よりお里【楯】【二枚】をしき弖【一】まひ尓者 【我身】【座】し【一枚】尓者【時秋】を寿へ遣り【人】をと 越くの介てう徒をより【文書】をとりいてゝ 【時秋】尓【見】せ介り【父】 【時元】三徒可ら可き堂累 14

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【大食調入調】 【曲譜】なりよし見徒者ときも と可【弟子】尓て【管弦】能おうき越き者め多 ものなりときあきいま多【十歳】尓も多らぬ (3 丁表・1 行目-6 行目) 本と尓【時元】うせ尓介れ者ときあき尓者さ徒介 さり介里さ弖【笙】盤あ里やとゝひ介れ者【候】 とてふところよりい多し多り介累やうい の本とま徒い見しうそ【侍】介累かく志多 日き多まふ八さ多めて【此】れう尓てもや 【侍】らんとて布多徒の【曲】をさつく 4.2. 通常の翻字版 (2 丁裏) そのとき義光ときあ きかおもふところをくむてみちよりすこ しいりて木陰にうちよりしはきりはらはせ/はせ〈行末左〉 馬よりおり楯18二枚をしきて一まひには 我身座し一枚には時秋をすへけり人をと をくのけてうつを19より文書をとりいてゝ 時秋に見せけり父時元20みつからかきたる 大食調入調21曲譜なりよしみつはときも とか弟子にて管弦22のおうき23をきはめたる ものなりときあきいまた十歳にもたらぬ (3 丁表) ほとに時元うせにけれはときあきにはさつけ さりけりさて笙はありやとゝひけれは候 とてふところよりいたしたりけるやうい のほとまついみしうそ侍けるかくした ひきたまふはさためて此れうにてもや 侍らんとてふたつの曲をさつく 18 楯(6.4.1) うつを(靫、6.4.2) 20 時元(豊原時元、6.4.3) 21 大食調入調(太食調入調、6.4.4) 22 管弦(6.4.5) 19 15

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4.3. 校訂本文 (2 丁裏-3 丁表) その時、義光、時秋 が思ふところをくむで、道より少 し入りて、木陰にうちより、柴〔しば〕 、切り払はせ、 馬よりおり、楯〔たて〕2 枚を敷きて、1 枚には 我が身座し、1 枚には時秋を据へけり。人を遠 くのけて、靫〔うつぼ〕より文書を取りいでて、 時秋に見せけり。「父、時元[ときもと]自ら書きたる 『太食調入調』 〔たいしきちょうにっちょう〕曲譜なり。義光、時元 が弟子にて、管絃〔かんげん〕の奥義〔おうぎ〕を究めたる ものなり。時秋、いまだ 10 歳にも足らぬ 程に、時元失せにければ、時秋には授け ざりけり。 「さて笙〔しょう〕は有りや。 」と問ひければ、 「候〔そうろう〕 」 とて懐より出したりける。用意 のほどまづいみじうぞ侍りける。「かくした ひ来給ふは、さだめてこの料にてもや 侍らん」とて 2 つの曲を授く。 4.4. 現代語訳 (2 丁裏-3 丁表) その時義光は、時秋 の思いをくんで、道から少 し中に入って、木陰に進み寄って、生えている小さな雑木〔ぞうき〕を切り払わせ、 馬から下り、防護のための武具を 2 枚敷いて、1 枚には 自分が座り、1 枚には時秋を座らせた。付いている人を遠 く退けて、矢を入れて持ち運ぶ筒型の道具から文書を取り出して、 時秋に見せた。 (義光は) 「時秋殿の父、時元[ときもと]殿が自ら書いた 『太食調入調』 〔たいしきちょうにっちょう/にゅうじょう〕という秘伝の曲の譜面です。 私、義光は時元殿 の弟子で、管絃における最も奥深い大切な事柄を究めた 者なのです。時秋殿は、10 歳に満たない くらいに、時元殿が亡くなったので、時秋殿にはこの曲を授け なかったのです。ところで笙(しょう)はありますか?」と問うと、 (時秋は) 「ございます」 と懐から出したのは、実によいことであった。 (義光は) 「このように(私を)慕っ て来ていただいたのは、きっとこの秘伝の曲の伝授を受けるためでしょう。 」 と、時秋に 2 つの曲を授けた。 16

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5. 笙の家に生きる覚悟を決めた時秋は都へ帰る(終・3 丁表-3 丁裏) 画像(2 丁裏-3 丁表/底本:5559 コマ目) 画像(3 丁裏/底本:5560 コマ目) 5.1. 変体仮名翻字版(くずし字版) (3 丁表・7 行目-10 行目) 【義光】八かゝ累【大事】尓より弖ま可れ者 見の【安否】志り可多しもゝ尓ひと徒も 17

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【安穏】なら者【都】能【見参】を【期】寿へし そこに者【豊原】【数代】 【之】 【楽工】【朝家】 【要須】 (3 丁裏・1 行目-3 行目) 【之】 【仁】 【也】【我】【真志】あら者す見や可尓きら くして見ちをま多らせらるへしとい日介れ者/介れ者〈行末左〉 【理】尓ま介弖の本り尓介り/介り〈丁末左〉 奥書 右時秋物語以森敬典所蔵為家卿真跡書写校合了 5.2. 通常の翻字版 (3 丁表) 義光はかゝる大事によりてまかれは みの安否24しりかたしもゝにひとつも 安穏ならは都の見参を期すへし そこには豊原数代の楽工25朝家要須26 (3 丁裏) の仁也我真志あらはすみやかにきら くしてみちをまたらせらるへしといひけれは/けれは〈行末左〉 理にまけてのほりにけり/けり〈丁末左〉 奥書 右時秋物語以森敬典所蔵為家卿真跡書写校合了 5.3. 校訂本文 (3 丁表-3 丁裏) 義光は、「かかる大事によりてまかれば、 身の安否〔あんぷ〕知り難し。百に一つも 安穏〔あんのん〕ならば、都の見参〔けんざん〕を期すべし。 そこには豊原[とよはら]数代〔すうだい〕の楽工〔がくく〕 、朝家要須〔ちょうかようしゅ/ちょう けようしゅ〕 24 安否(6.5.1) 楽工(6.5.2) 26 朝家要須(6.5.3) 25 18

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の仁なり。我、真志〔しんし〕あらば、すみやかに帰洛〔きらく〕 して、道をまたせらるべし。」と言ひければ、 理にまけて上りにけり。 奥書 右、時秋物語は、森敬典が所蔵する藤原為家[ふじわらのためいえ]卿の真跡〔しんせき〕を以て、 書写・校合しおわんぬ。 5.4. 現代語訳 (3 丁表-3 丁裏) 義光は、「このような大きな事によって東国へ出向けば、 身の安泰か否かは知り難いものです。100 に 1 つでも 私が平穏無事ならば、都でまたお会いいたしましょう。 あなたは笙を守る家柄である、豊原家の 5 代目にあたる音楽を職とする人であり、朝廷が必要とする 人です。私に恩を感じるのであれば、すみやかに都へ帰って、 笙の道に打ち込んでください。 」と言ったので、 時秋は道理に負けて都へ上った。 奥書 右の『時秋物語』は、森敬典が所蔵する藤原為家[ふじわらのためいえ]卿の真筆で、その本を書写 して本文の異同の確認や誤りを直し終わったものである。 6. 現代語訳メモ 6.1. 源義光は兄義家の救援のため辞職して東国へ向かう 本文の略称 国史: 『国史大辞典』 、日国=『日本国語大辞典』 、角川古語=『角川古語大辞典』をさす。 6.1.1. 甲斐守〔かいのかみ〕 現在の山梨県である甲斐国の長官をさす。 (国史 3-87) 6.1.2. 源義光[みなもとよしみつ] (生没年)寛徳 2(1045)年~大治 2(1127)年 10 月 20 日(新暦 11 月 25 日) (系譜)父:源頼義[みなもとのよりよし] 、母:平直方[たいらのなおかた]の娘。 平安時代中期に活躍した武将。源頼義[みなもとのよりよし]の三男で、義家[よしいえ]の弟。 武田氏[たけだし] ・佐竹氏[さたけし]などの祖先にあたる。白河上皇[しらかわじょうこう]に 仕えている。滋賀県の三井寺〔みいでら〕にある「新羅明神」 〔しんらみょうじん〕の前で元服した ことから、 「新羅三郎」 [しんらさぶろう]との呼称もある。 19

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『鳳笙師伝相承』で義光は、時秋の祖父である時光[ときみつ]の弟子とされ、時元に『荒序』 〔こ うじょ〕という秘曲を教えたことになっている。 『荒序』は舞曲『蘭陵王』 〔らんりょうおう〕の序 の1つで『陵王荒序』 〔りょうおうこうじょ〕とも言われる。 『陵王荒序』のうち、 『蘭陵王』は戦 勝の末に天下に平和をもたらすという由緒がある曲で、 『荒序』は鎌倉時代に起こった蒙古襲来〔も うこしゅうらい〕の際に石清水八幡宮〔いわしみずはちまんぐう〕に奉納された曲である。なお『陵 王荒序』については、京都市立芸術大学日本音楽研究センターにより、平安・鎌倉時代の古楽譜に 基づく再演が行われているので、現在聞くことできる。 6.1.3. 左兵衞尉〔さひょうえのじょう〕 天皇の護衛や内裏〔だいり/皇居〕内の夜間の宿直〔とのい/宿泊をして任務にあたること〕 も担当した兵衛府[ひょうえふ]のうち、左兵衛府の三等官。 (日国 6-155、 「兵衛府」国史 11-1012) 6.1.4. 陸奥守〔むつのかみ〕 現在の福島・宮城・岩手、青森の各県と秋田県の一部である陸奥国の長官をさす。 (国史 13-628) 6.1.5. 源義家[みなもとのよしいえ] (生没年)長暦 3(1039)~嘉承元(1106)年 7 月 4 日(新暦 8 月 4 日) (系譜)父:源頼義[みなもとのよりよし] 、母:平直方[たいらのなおかた]の娘。 頼義夫妻の長男で同母の弟に義綱[よしつな]と義光がいる。鎌倉幕府を開いた頼朝[よりとも] の高祖父〔こうそふ/ひいひいおじいさん〕にあたる。奥州で清原武衡[きよはらのたけひら]た ちと戦う。 『豊原氏系図』 ・ 『鳳笙師伝相承』 〔ほうしょうしでんそうしょう〕では、時秋の祖父であ る時光[ときみつ]に笙を習ったとされている。なお、義家と義光の父である頼義[よりよし]は、 時光の父である時延[ときのぶ]に笙を習っていた。ちなみに、義家の子孫である、室町幕府の初 代将軍の足利尊氏[あしかがたかうじ]が笙を奨励したことにはじまり、足利将軍家にとって笙を 習うということは特別なことであるとされた。さらに将軍が戦に出陣する前に「笙始」 〔しょうはじ め〕という儀式があったことがわかっている。 ※関連①:後三年の役/後三年合戦→『奥州後三年記』 ・『後三年合戦絵詞』に詳しい。 ※関連②:大河ドラマ『炎立つ』 (1993 年)/高橋克彦著『炎立つ』 (日本放送協会、1992-1994 年) (講談社文庫、1995 年) ※関連③:足利将軍が笙を習ったこと →三島暁子著『天皇・将軍・地下楽人の室町音楽史』 (思文閣出版、2012 年) 6.1.6. 朝臣〔あそん〕 五位以上の位にある人への敬称。 (角川古語 1-73) 6.1.7. 清原武衡[きよはらのたけひら] (生没年)生年不詳~寛治元(1087)年 (系譜)父:清原武則[きよはらのたけのり] 20

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武貞[たけさだ]の弟。甥の家衡[いえひら]と組んで、義家・清衡連合軍と対決し、現在の秋 田県横手市にある金沢柵〔かねざわさく・かねざわのき〕落城により斬首される。この一連の戦い が「後三年の役」 〔ごさんねんのえき/後三年合戦〕である。 6.1.8. 清原家衡[きよはらのいえひら] (生没年)生年不詳~寛治元(1087)年 (系譜)父:清原武貞[きよはらのたけさだ] 、母:有伽一乃末陪[ありかいちのまえ] 有伽一乃末陪は安倍頼時[あべのよりとき]の長女である。奥州藤原氏の初代である清衡[き よひら]の異父弟。異母兄の真衡[さねひら]が一族の長老である吉彦秀武[きみこのひでたけ] と争ったときに、秀武側につく。後に清衡と争って金沢柵落城により斬首される。 6.1.9. 弦袋/絃袋〔つるぶくろ〕 『群書類従』本文では「絃袋」となっている。予備で持っている弓の弦を入れた袋のこと。革で できており、緒で太刀に付けた。(角川古語 4—494) 6.2. 近江国で義光は豊原時秋に遭遇する 6.2.1. 近江国鏡の駅〔おうみのくにかがみのうまや〕 現在の滋賀県竜王町〔りゅうおうちょう〕にあった宿駅のこと。平安時代には存在し、 『平治物語』 〔へいじものがたり〕には、源義経[みなもとのよしつね]が自ら元服した地として登場する。 (角 川地名 25—213) ※滋賀県竜王町には源義経の元服に関する史跡がある。 竜王町観光協会のサイトに詳しい。 ・源義経元服池〔みなもとのよしつねげんぷくいけ〕 ・源義経元服の盥(みなもとのよしつねげんぷくのたらい・鏡神社で保管) ・義経の烏帽子掛松〔よしつねのえぼしかけまつ〕 ・義経宿泊の館(白木屋)跡〔よしつねしゅくはくのあと〕 6.2.2. 縹〔はなだ〕 染色名また色の名前。もともとは露草の花で染めた薄い青色をさした。後には藍を使って染めた ものをさす。薄い藍色。 (角川古語 4-1118、 『日本古典文学大系 古今著聞集』207 頁の頭注 42) 6.2.3. 単〔ひとえ〕 ・狩衣〔かりぎぬ〕 衣類に裏地がついていない貴族や武士の平服。 ( 「単」角川古語 5-81、 「狩衣」角川古語 1-905、 『日本古典文学大系 古今著聞集』207 頁の頭注 43) 6.2.4. 引き入れ烏帽子〔ひきいれえぼし〕 頭に深くかぶる烏帽子のこと。(「引入烏帽子」日本国語 11-175) 21

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6.3. 義光は都へ帰るようにすすめるが時秋は納得しない 6.3.1. 相模国足柄山〔さがみのくにあしがらやま〕 現在の神奈川県南足柄市に位置する山。神奈川県の西部。 『古事記』 〔こじき〕にある景行天皇[け いこうてんのう]の条に「足柄の坂本」という所に、白い鹿の姿をした神が出現したという話が載 る。 『更級日記』 〔さらしなにっき〕の作者菅原孝標女[すがわらのたかすえのむすめ]など、東国 と行き来をする人はここを利用した。(「足柄」角川地名 14-72〜73、 「足柄峠」76〜77) 6.3.2. 所職〔しょしき/しょしょく〕 官庁や大きな寺院などで特定の職に就いていること。 (角川古語 2-328) 6.3.3. 三拝申して 「三拝」は何度もお辞儀をすること。しかし、前後の意味を考え、 『八州文藻』所収本(3416 コ マ目―3417 コマ目)にある「辞し申し」を採用した。 6.4. 足柄峠で義光は時秋に秘伝の曲を伝授する 6.4.1. 楯〔たて〕 防護のための武具。古くは鉄製や革製があり、後には木製になった。 (角川古語 5-165) 6.4.2. うつを/靫〔うつほ〕 野外で矢が雨風にさらされるのを防ぐために、矢を入れて腰につける容器のこと。 (角川古語 1429)また矢を入れて、背負う道具のこと。 ( 『日本古典文学大系 古今著聞集』208 頁の頭注 5) 6.4.3. 豊原時元[とよはらのときもと] (生没年)生年不詳~保安 4(1123)年 豊原時光[ときみつ]の三男で時秋の父。堀河天皇[ほりかわてんのう]に仕えた。 ( 「豊原氏系 図」 『群書類従』第 63・4382 コマ目) 6.4.4. 太食調入調〔たいしきちょうにっちょう/にゅうじょう〕 『群書類従』の本文では『大食調入調』となっている。 「 『太食調入調』の「太食調」は、唐の国 から伝わった 唐楽の調子である「六調子」 (りくちょうし)の 1 つである。 同じく六調子のうち 「平調」 (ひょうじょう)を基本とする 調の名前で、西洋音楽の「ミ」に該当する。 「太食調」は「呂 旋」という西洋音楽でいう長音階にあたる旋律が主であるものの、楽曲は西洋音楽の短音階にあた る「律旋」という旋律 がまじっている。続いて「入調」は入調子のことで、舞人が楽屋に退場する ときに演奏される。 ・蒲生郷昭「雅楽概説」、 「太食調」 (小野亮哉監修、東儀信太郎代表執筆者『雅楽事典』14~15 頁、 62 頁、音楽之友社、1989 年)(本文 49-50 頁) 22

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6.4.5. 管絃〔かんげん〕 雅楽の演奏の様式のこと。管楽器と弦楽器からなる。 (日国 3-1257) 6.5. 笙の家に生きる覚悟を決めた時秋は都へ帰る 6.5.1. 安否〔あんぷ〕 身の安泰か否かをさす。 (角川古語 1-109) 6.5.2. 楽工〔がくく〕 音楽をもって職とするもの。 (角川古語 1-715) 6.5.3. 朝家要須〔ちょうけようしゅ〕 「朝家」は朝廷、 「要須」はある物事にとってなくてはならないこと。 ( 「朝家」角川古語 9-26、 「要須」角川古語 13-519) 以上 謝辞〈Acknowledgement〉 国文学研究資料館蔵『群書類従』に所収の『時秋物語』 (オープンデータ、ヤ 0-25-1~102 のうち巻 483)を使用させていただきました。 篤く御礼申し上げます。 本研究は JSPS 科研費 15K13257 の助成を受けたものです。 This was financed with JSPS KAKENHI Grant Number 15K13257 23