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March 02, 23
スライド概要
攻城団に連載中の「家康の合戦」の最終回にあわせて、著者のたかまる。さんと歴史作家の榎本先生をお招きして生放送をおこないました。
その際に使用したスライドです。
https://youtube.com/live/PBKJ4o9Nqlg?feature=share
連載終了記念LIVE
たかまる。さんの ご紹介 1974年、斎藤道三、織⽥信⻑が居城とした岐⾩に⽣まれる。 幼少より岐⾩城を眺めながらすくすく育つ。 ⼤学院卒業後、姫路城で⽇本100名城スタンプ帳を購⼊して以来、 本格的にお城にハマる。 国宝⽝⼭城天守のある愛知県⽝⼭市に居を構えたのをきっかけに、 2016年より「たかまる。」として活動を始め、現在に⾄る。 攻城団ブログにも多数記事を寄稿してくださってます
今回の連載 内容: 家康が参加した合戦のうち、とくに重要そうなのを背景含めて紹介 対象: 以下の8合戦 • 桶狭間の戦い • 姉川の戦い • 三⽅原の戦い • ⻑篠設楽原の戦い • ⾼天神城の戦い • ⼩牧・⻑久⼿の戦い • 関ヶ原の戦い • ⼤坂冬の陣・夏の陣 写真: ジェイドさん
桶狭間の戦い 家康が今川の籠から出るきっかけ ⽇付 永禄3年5⽉19⽇(1560年6⽉12⽇) 今川⽅の松平元康として参戦することに 場所 尾張国知多郡桶狭間 なった桶狭間の戦いをざっと⾒てきまし 結果 織⽥信⻑軍の勝利、今川義元の討死 た。これを起点に情勢が⼤きく変化して いく中、どの道を進むべきかを探しなが ら徳川家康として歩みを進めてきたこと をうかがい知ることができました。桶狭 間の戦いは家康にとってはターニングポ イントとなった戦いですが、それは後に 振り返ってみればという話だったのかも しれませんね。 とは⾔え、この戦いの後に「徳川家康」 が誕⽣したことは間違いありません。こ こから家康がどのように歩んでいくのか も、今後追っていきましょう。
姉川の戦い 信長・家康陣営が「盛った」可能性 ⽇付 元⻲元年6⽉28⽇(1570年7⽉30⽇) (前略) 場所 滋賀県⻑浜市姉川河原 つまり、姉川の戦いで信⻑・家康連合軍 結果 織⽥・徳川連合軍の勝利(部分的?) は⼀時的な勝利を収めることはできまし たが、決定打とはならなかったというの がこの戦いの本当のところだと考えられ ます。 姉川の戦いの後、阿波に逃れていた三好 三⼈衆が畿内に侵攻してきます。また本 願寺や⽐叡⼭延暦寺も信⻑に敵対し、伊 勢畠⼭⽒や松永久秀、武⽥信⽞らも加 わって信⻑包囲網が敷かれていきます。 家康はというと、信⻑に敵対した武⽥信 ⽞が上洛⽬指して遠江へ侵攻し、三⽅ヶ 原の戦いへと進んでいくのです。
三方原(三方ヶ原)の戦い 文字通り、九死に一生を得た戦い ⽇付 元⻲3年12⽉22⽇(1573年1⽉25⽇) 甲斐の⻁・武⽥信⽞との直接対決。家康 場所 遠江国敷知郡三⽅ヶ原 はどんな思いで戦いに挑んだのでしょう 結果 武⽥軍の圧勝、徳川軍の完敗 か。三⽅ヶ原の戦いは家康にとっては厳 しい現実を突きつけられた戦いでもあり ました。武⽥信⽞を取り巻く状況が刻々 と変わる中での判断⼒が求められたとき とも⾔えます。しかみ像はこの戦いとは 関係ないものとわかっていても、やはり そのときに描かせたように⾒えてくるの はなぜでしょうか。このあと、⾼天神城 の戦い、⻑篠設楽原の戦いで武⽥勝頼と 相まみえていきますが、どのような結末 が待っているのか次回以降探っていきま しょう。
長篠設楽原の戦い 武田勝頼による三河再侵攻を撃破 ⽇付 天正3年5⽉21⽇(1575年6⽉29⽇) 武⽥勝頼の三河侵攻により勃発した⻑篠 場所 三河国⻑篠城・設楽原(設楽ヶ原) 設楽原の戦いです。「鉄砲三段撃ち」や 結果 織⽥・徳川連合軍の圧勝、武⽥軍の惨敗 「武⽥騎⾺軍団vs鉄砲隊」の話が取りざ たされますが、戦いに⾄る流れやその後 の動きなどを⾒ることによって、真の⻑ 篠設楽原の戦いが⾒えてきたのではない でしょうか。周辺諸城をめぐるなどして、 武⽥と徳川の戦いに思いをはせてみてく ださい。 従来は信⽞が上洛するためとか、港のな い武⽥にとっては三河や遠江は貿易拠点 となるために是が⾮でもほしかったなど と⾔われていますが、鉛などの鉱⼭をめ ぐる争いではないかというものです。
高天神城の戦い 遠江支配のための戦いが武田家の命運を決める ⽇付 1572年(元⻲3年)、1574年(天正2年)、1581年(天正9年) 武⽥と徳川の間で起こった「⾼天神城の 場所 遠江国⾼天神城 戦い」は3度起こりました。最後に⾼天 結果 最終的に徳川軍の勝利 神城を攻め落とした家康は遠江を平定す ることに成功し、その後の五か国領有へ とつながっていきました。⻑篠設楽原の 戦いとあわせて⾒ていくと、その流れが 良くわかると思います。 勝頼が援軍が出せない状況であることも 情報として掴んでいて、それを踏まえた 上で、城を⾒捨てたとなれば武⽥の統制 は取れなくなるだろうと推測しています。 しかし、最後の⽂がとても⼤事で、降伏 受け⼊れ可否については「徳川家中」で 決めてくれと⾔っているのです。
小牧・長久手の戦い 家康が得たものと失ったものは ⽇付 天正12年(1584年)3⽉〜11⽉ 後年、⼩牧・⻑久⼿の戦いは徳川家にとっては 場所 尾張国⼩牧⼭・⻑久⼿ほか ⾮常に⼤きな戦いと位置付けられることになり 結果 織⽥・徳川連合軍の戦術的勝利、⽻柴軍の戦略的勝利 ました。もともとは織⽥家当主・信雄と織⽥家 家⾂・秀吉による権⼒争いでしたが、信雄に協 ⼒した家康は秀吉ににらまれることとなり、⼩ 牧・⻑久⼿の戦いにおいて激闘を⾏ったのです。 局地戦では家康が勝ったと⾔われますが、後年 の徳川家によって盛られていることは否めませ ん。しかし、家康にとっては命拾いすることに なったと⾒ることもでき、その後の地位獲得と 将軍任官へとつながる重要な⼀戦であったこと は間違いありません。豊⾂政権はしばらくは維 持されていきますが、信⻑の死後に政局が動い たのと同じように、秀吉の死後、家康が⼤きく 権⼒を握っていくこととなります。
関ヶ原の戦い 誰も予想できなかった「秒で終わる」決着 ⽇付 慶⻑5年9⽉15⽇(1600年10⽉21⽇) 家康はどういった⽴場でこの戦いを迎え 場所 美濃国不破郡関ヶ原 たのか、どんな⼼境だったのかなど、 結果 東軍の勝利。⽯⽥三成、⼩⻄⾏⻑、安国寺恵瓊らの斬⾸ 違った⽬線で関ヶ原の戦いを⾒てみまし た。これまでの関ヶ原の戦いのイメージ と少し違ったかもしれません。 戦いそのものよりも、なぜその戦いが起 こるに⾄ったのか、そしてその戦いの結 末によってその後にどう影響したのかを ⾒てみるのも⾯⽩いかと思います。 家康が公儀から外され、⼤義がなくなっ てしまった中、戦いが勃発してしまった というのが家康の本当の関ヶ原の戦いな のかもしれませんね。
大坂冬の陣・夏の陣 家康最後の合戦は避けられた戦いだったか ⽇付 慶⻑19年(1614年)11⽉〜慶⻑20年(1615年)5⽉ 家康は豊⾂家を恨んだり憎んだりしてい 場所 摂津国、河内国、和泉国 たわけではないと思います。しかし、お 結果 江⼾幕府軍の勝利、豊⾂⽒の滅亡 互いの勢⼒が国を⼆分するほど⼤きくな りすぎて、⾃分たちだけではどうにもな らない状態にまでなってしまったことが、 この戦いの本質的な部分なのではないか と思わされます。 (中略)お互いに⼀歩も譲ることができ ないヒリヒリするような状態での決断な ど、息をのむ場⾯が多いのが⼤坂の陣で す。 いろいろなドラマや⼩説などもあります ので、それらを⾒るときの参考にしてい ただけたら幸いです。
家康の全合戦 「カラー版 徳川家康の⽣涯と全合戦の謎99」 かみゆ歴史編集部(イースト新書Q) • けっこうな割合が巻き込まれ系 • 本⼈が参加してない合戦も多い • 家康は本当に野戦巧者なのか? • そんなに野戦で勝ってる? • ⾔うほど攻城戦下⼿か?
徳川家康ゆかりの城めぐり 421⼈ 2009⼈ 獲得⼈数:413⼈ 挑戦⼈数:1871⼈
榎本先生による連載「家康の謎」もよろしく! 毎週日曜朝に更新!