不安障害、自傷第二回精神医学講座

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January 20, 23

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各ページのテキスト
1.

メンバーシップ限定、1年かけて精神医学を学ぶ 精神医学講義第二回(全十二回) 不安障害および自傷行為について

2.

脳の仕組み 現実 記憶 (経験/知識) ズレ 脳内の世界(予測) 解決に向かう行動 認知の修正 回避 神経の配線 ズレ=ストレス、 不安、怒りなど

3.

不安障害の脳 現実 回避しかない と思い込み 大きなズレ ネガティブな予測 記憶 (経験/知識) 神経の配線 不安を感じやすい 回避ばかり選ぶ 認知の修正されない 悪循環

4.

自傷の脳 現実 自傷=成功 認知の歪み 大きなズレ 自傷する 落ち着く 誤った予測 記憶 (経験/知識) 神経の配線 脳内麻薬が 出やすくなっている 悪循環

5.

不安障害について 1、不安とは何か? 2、自律神経とは? 3、不安障害とは? 4、不安障害の治療法 ・薬物療法 ・暴露療法など 5、まとめ 自傷について 1、自傷行為のメカニズム「脳内麻薬依存症」 2、自傷行為に至る背景 3、自傷行為はアピールではない 4、自傷行為の治療法 ・そもそも治療とは? ・予測する脳とは? ・何を学ぶ? ・具体的な治療方法 本講座は「ニューロダイバーシティ的観点」および 5、まとめ 「予測する脳」仮説を中心に議論を展開していきます

6.

不安障害について

7.

不安とは何か? システム系としての情動 遺伝子 そもそも 抑うつ〜不安〜恐怖 (現代の)脳科学的に分別は困難である 前頭前 皮質 恐怖は扁桃体に依存していることはわかっている。 が、情動は多くの脳領域にわたって関与している (記憶や学習の影響を受ける) 抑える 海馬 失敗、恥、虐待など 扁桃体 無条件恐怖反応 学習性恐怖 感情カテゴリーは学習の成果であ り、特有の脳領域を持たない 同じように 気分障害〜不安障害〜PTSDと (現代の)脳科学的に分別は困難である 遺伝性があることは知られているが、単一遺伝子によるの ではなく、多数の遺伝子にまたがって影響されている。 骨格筋の活動 自律神経活動 ホルモン放出 ホルモン影響

8.

自律神経とは? 骨格筋の活動 交感神経系の活性化 自律神経活動 ホルモン放出 交感神経系 副交感神経系

9.

全般性不安障害 GAD 強迫性障害 社交不安障害 SAD パニック障害 PD 広場恐怖症 うつ病 PTSD

10.

不安障害の脳 不安に関する記憶が残る 回避しかない 失敗、恥、虐待など と思い込み 現実 大きなズレ ネガティブな予測 記憶 (経験/知識) 神経の配線 不安/恥を感じやすい 回避ばかり選ぶ 認知の修正されない 悪循環

11.

全般性不安障害 漠然と不安 (認知の歪み) 不安を感じやすい脳 現実 ズレ 不安 回避 (その瞬間は良いが 認知が修正されない) セロトニン系異常 自律神経の乱れ

12.

社交不安症 恥と不安 (認知の歪み) 他人を感じやすい脳 現実 ズレ 不安 回避 (その瞬間は良いが 認知が修正されない) セロトニン系異常 自律神経の乱れ

13.

パニック障害 現実 発作時 の恐怖 ズレ 予期不安 広場恐怖 回避 (その瞬間は良いが 認知が修正されない) セロトニン系異常 パニック発作

14.

強迫性障害 現実 強迫行為 強迫観念 ズレ 行為をやらないと 落ち着かない 強迫行為 によって 不安が解消 報酬系の異常 身体からの信号

15.

うつ病 記憶 (認知の歪み) ストレスによる脳の炎症反応 現実 ズレ 被害的 ネガティブ 思考制止 集中困難 活動量低下 セロトニン系異常 身体からの信号

16.

PTSD 現実 鮮明な記憶 消去困難 ズレ 不安/現実感のなさ 回避/麻痺 過覚醒 フラッシュバック 自律神経の乱れ

17.

複雑性PTSD 現実 鮮明な記憶 消去困難 ズレ 不安/現実感のなさ 回避/麻痺 過覚醒 フラッシュバック 自律神経の乱れ

18.

薬の分類 抗精神病薬 抗うつ薬 気分安定薬 ベンゾジアゼピン系 その他 三環系抗うつ薬:アナフラニールなど SSRI:パキシル、ジェイゾロフト(セルトラリン25~100㎎)、レクサプ ロ10~20㎎など SNRI:サインバルタ(鎮痛作用もある)など NaSSA(ナッサ):リフレックスなど。抗うつ効果は高いが、鎮静作用が 強く、眠気が出る。 S-RIM(エスリム):トリンテリックスなど。 神経伝達 物質 遺伝子 神経細胞 膜受容体 エピジェネリ ックな変化 セロトニンに関する神経系を増やす 脳の配線 〇〇系 脳 脳と身体・腸 脳と脳

19.

ベンゾジアゼピン系睡眠薬:脳内物質であるGABA受容体に作用。不安緊張をとる作用がある一方、依存性に注意 非ベンゾジアゼピン系睡眠薬:GABA受容体に作用するのは同じだが、不安緊張をとる作用が少ないため、依存性 が抑えられている メラトニン受容体作動薬:メラトニン受容体に作用することで、体内時計を調節し、自然な眠気をうむ オレキシン受容体拮抗薬:目を覚ます作用のあるオレキシンの作用を抑え、眠気をうむ 薬の分類 抗精神病薬 抗うつ薬 気分安定薬 ベンゾジアゼピン系 その他 薬で右側に持ってくる 効きすぎると眠くなる

20.

生い立ち 遺伝 不安障害のカウンセリング(二つのモデル) 不安に対して、回避行動をとる 回避行動をとり続けるので、予測が修正 されず、不安が増強していく 悪循環 「記憶と学習」 不安に関する記憶の影響力が強い 失敗、恥、虐待など 予測する脳 内部活動 心の地図が虫食い構造になっている 福澤諭吉の父は豊前ぶぜん中津奥平おくだいら藩の士族福澤百助ひゃくすけ、母は同藩士族、橋本浜右衛門はしもとはまえもんの長女、名を於順おじゅんと申し、父の身分はヤット藩主に定式じょうしきの謁見が出来ると云いうのですから足軽あしがるよりは数等宜よろしいけ れども士族中の下級、今日で云えば先まず判任官の家でしょう。藩で云う元締役もとじめやくを勤めて大阪にある中津藩の倉屋敷くらやしきに長く勤番して居ました。夫それゆえ家内残らず大阪に引越ひきこして居て、私共わたしどもは皆大阪で生れたのです。兄弟五人、総領 の兄の次に女の子が三人、私は末子ばっし。私の生れたのは天保五年十二月十二日、父四十三歳、母三十一歳の時の誕生です。ソレカラ天保七年六月、父が不幸にして病死。跡に遺のこるは母一人に子供五人、兄は十一歳、私は数かぞえ年で三つ。斯かくなれば大阪にも居られ ず、兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました。 兄弟五人中津の風に合わず扨さて中津に帰てから私の覚えて居ることを申せば、私共の兄弟五人はドウシテも中津人と一所いっしょに混和こんかすることが出来ない、その出来ないと云うのは深い由縁も何もないが、従兄弟いとこが沢山たくさんある、父方ててかたの従兄弟も あれば母方ははかたの従兄弟もある。マア何十人と云う従兄弟がある。又近所の小供も幾許いくらもある、あるけれどもその者等ものらとゴチャクチャになることは出来ぬ。第一言葉が可笑おかしい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「そうじゃちこ」と云いう所を、私共 は「そうでおます」なんと云うような訳わけで、お互に可笑おかしいから先まず話が少ない。夫それから又母は素もと中津生れであるが、長く大阪に居たから大阪の風ふうに慣れて、小供の髪の塩梅式あんばいしき、着物の塩梅式、一切大阪風の着物より外ほかにない。有合あ りあいの着物を着せるから自然中津の風とは違わなければならぬ。着物が違い言葉が違うと云う外には何も原因はないが、子供の事だから何だか人中ひとなかに出るのを気恥かしいように思おもって、自然、内に引込んで兄弟同士遊んで居ると云うような風でした。 儒教主義の教育夫れから最もう一つ之これに加えると、私の父は学者であった。普通あたりまえの漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持かねもち、加島屋かじまや、鴻こうノ池いけというような者に交際して藩債の事を司つかさどる役で あるが、元来父はコンナ事が不平で堪たまらない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという考かんがえであるに、存ぞんじ掛かけもなく算盤そろばんを執とって金の数を数えなければならぬとか、藩借はんしゃく延期の談判をしなければならぬとか云いう 仕事で、今の洋学者とは大おおいに違って、昔の学者は銭を見るも汚けがれると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う訳わけであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、斯こう云うことが ある。私は勿論もちろん幼少だから手習てならいどころの話でないが、最もう十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷くらやしきの中に手習の師匠があって、其家そこには町家ちょうかの小供も来る。其処そこでイロハニホヘトを教えるのは宜よ ろしいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然あたりまえの話であるが、その事を父が聞て、怪けしからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云いうのは以もっての外ほかだ。斯こう云いう処に小供は遣やって置かれぬ。何を教え るか知れぬ。早速さっそく取返せと云いって取返した事があると云うことは、後のちに母に聞きました。何でも大変喧やかましい人物であったことは推察が出来る。その書遺かきのこしたものなどを見れば真実正銘しょうみょうの漢儒で、殊ことに堀河ほりかわの伊藤東涯いと うとうがい先生が大信心だいしんじんで、誠意誠心、屋漏おくろうに愧はじずということ許ばかり心掛こころがけたものと思われるから、その遺風は自おのずから私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合つきあいは少く、明あけても暮れても唯 ただ母の話を聞く許ばかり、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思おもって、骨肉こつにくの従兄弟いとこに対してさえ、心の 中には何となく之これを目下めしたに見下みくだして居て、夫等それらの者のすることは一切咎とがめもせぬ、多勢たぜいに無勢ぶぜい、咎立とがめだてをしようと云いっても及ぶ話でないと諦あきらめて居ながら、心の底には丸で歯牙しがに掛けずに、云いわば人を馬鹿にし て居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、能よく饒舌しゃべりもし、飛び廻まわり刎はね廻わりして、至極しごく活溌にてありながら、木に登ることが不得手ふえてで、水を泳ぐことが皆無かいむ出来ぬと云うのも、兎角とかく同藩中の子弟と 打解うちとけて遊ぶことが出来ずに孤立した所為せいでしょう。 厳ならずして家風正し今申す通り私共の兄弟は、幼少のとき中津の人と言語風俗を殊ことにして、他人の知らぬ処に随分淋さびしい思いをしましたが、その淋しい間あいだにも家風は至極しごく正しい。厳重な父があるでもないが、母子睦むつまじく暮して兄弟喧嘩など唯ただ の一度もしたことがない。のみか、仮初かりそめにも俗な卑陋びろうな事はしられないものだと育てられて、別段に教える者もない、母も決して喧やかましい六むずかしい人でないのに、自然に爾そうなったのは、矢張やはり父の遺風と母の感化力でしょう。その事実に現われ たことを申せば、鳴物なりものなどの一条で、三味線しゃみせんとか何とか云いうものを、聞こうとも思わなければ何とも思わぬ。斯様かようなものは全体私なんぞの聞くべきものでない、矧いわんや玩もてあそぶべき者でないと云う考かんがえを持て居るから、遂ついぞ芝居 見物など念頭に浮んだこともない。例えば、夏になると中津に芝居がある。祭の時には七日も芝居を興行して、田舎役者が芸をするその時には、藩から布令ふれが出る。芝居は何日なんかの間あいだあるが、藩士たるものは決して立寄ることは相成あいならぬ、住吉すみよしの 社やしろの石垣より以外に行くことならぬと云うその布令の文面は、甚はなはだ厳重なようにあるが、唯ただ一片いっぺんの御お布令だけの事であるから、俗士族は脇差わきざしを一本挟さして頬冠ほほかむりをして颯々さっさつと芝居の矢来やらいを破やぶって這入はいる。 若もしそれを咎とがめれば却かえって叱しかり飛ばすと云うから、誰も怖がって咎める者はない。町の者は金を払はらって行くに、士族は忍姿しのびすがたで却て威張いばって只ただ這入はいって観みる。然しかるに中以下俗士族ぞくしぞくの多い中で、その芝居に行かぬのは 凡およそ私のところ一軒位ぐらいでしょう。決して行かない。此処ここから先さきは行くことはならぬと云いえば、一足ひとあしでも行かぬ、どんな事があっても。私の母は女ながらも遂ついぞ一口ひとくちでも芝居の事を子供に云わず、兄も亦また行こうと云わず、家内中か ないじゅう一寸ちょいとでも話がない。夏、暑い時の事であるから凉すずみには行く。併しかしその近くで芝居をして居るからと云いって見ようともしない、どんな芝居を遣やって居るとも噂にもしない、平気で居ると云うような家風でした。 成長の上、坊主にする前ぜん申す通り、亡父ぼうふは俗吏ぞくりを勤めるのが不本意であったに違いない。左されば中津を蹴飛けとばして外に出れば宜いい。所が決してソンナ気はなかった様子だ。如何いかなる事にも不平を呑のんで、チャント小禄しょうろくに安やすんじて 居たのは、時勢の為ために進退不自由なりし故でしょう。私は今でも独ひとり気の毒で残念に思います。例えば父の生前に斯こう云う事がある。今から推察すれば父の胸算きょうさんに、福澤の家は総領に相続させる積つもりで宜よろしい、所が子供の五人目に私が生れた、そ の生れた時は大きな療やせた骨太ほねぶとな子で、産婆さんばの申すに、この子は乳さえ沢山たくさん呑ませれば必ず見事に育つと云うのを聞て、父が大層たいそう喜んで、是これは好いい子だ、この子が段々成長して十とおか十一になれば寺に遣やって坊主にすると、毎度母 に語ったそうです。その事を母が又私に話して、アノ時阿父おとっさんは何故なぜ坊主にすると仰おっしゃったか合点がてんが行かぬが、今御存命ごぞんめいなればお前は寺の坊様ぼうさまになってる筈はずじゃと、何かの話の端はしには母が爾そう申して居ましたが、私が成 年の後のちその父の言葉を推察するに、中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立て居て、何百年経たっても一寸ちょいとも動かぬと云う有様、家老の家に生れた者は家老になり、足軽あしがるの家に生れた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は 足軽、その間あいだに挟はさまって居る者も同様、何年経ても一寸ちょいとも変化と云いうものがない。ソコデ私の父の身になって考えて見れば、到底どんな事をしたって名を成すことは出来ない、世間を見れば茲ここに坊主と云うものが一つある、何でもない魚屋さかなやの 息子が大僧正になったと云うような者が幾人いくらもある話、それゆえに父が私を坊主にすると云いったのは、その意味であろうと推察したことは間違いなかろう。 門閥制度は親の敵如斯こんなことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空むなしく不平を呑のんで世を去りたるこそ遺憾なれ。又初生児しょせいじの行末ゆくすえを謀はかり、之これを坊主にしても名を成さしめんとまでに決心した るその心中の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思出し、封建の門閥制度を憤いきどおると共に、亡父ぼうふの心事を察して独ひとり泣くことがあります。私の為ために門閥制度は親の敵かたきで御座る。 年十四、五歳にして始めて読書に志す私は坊主にならなかった。坊主にならずに家に居たのであるから学問をすべき筈である。所が誰も世話の為人してがない。私の兄だからと云いって兄弟の長少僅わずか十一しか違わぬので、その間は皆女の子、母も亦またたった一人ひとり で、下女下男を置くと云いうことの出来る家ではなし、母が一人で飯めしを焚たいたりお菜さいを拵こしらえたりして五人の小供の世話をしなければならぬから、中々教育の世話などは存じ掛がけもない。云わばヤリ放はなしである。藩の風ふうで幼少の時から論語を続むとか 大学を読む位くらいの事は遣やらぬことはないけれども、奨励する者とては一人もない。殊ことに誰だって本を読むことの好すきな子供はない。私一人本が嫌いと云うこともなかろう、天下の小供みな嫌いだろう。私は甚はなはだ嫌いであったから休やすんでばかり居て何もし ない。手習てならいもしなければ本も読まない。根ねっから何にもせずに居た所が、十四か十五になって見ると、近処きんじょに知しって居る者は皆な本を読よんで居るのに、自分独ひとり読まぬと云うのは外聞がいぶんが悪いとか恥かしいとか思おもったのでしょう。夫それ から自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ行始ゆきはじめました。どうも十四、五になって始めて学ぶのだから甚だきまりが悪い。外ほかの者は詩経しきょうを読むの書経しょきょうを読むのと云いうのに、私は孟子もうしの素読そどくをすると云う次第である。所が茲こ こに奇きな事は、その塾で蒙求もうぎゅうとか孟子とか論語とかの会読かいどく講義をすると云うことになると、私は天禀てんりん、少し文才があったのか知らん、能よく其その意味を解げして、朝の素読に教えて呉くれた人と、昼からになって蒙求などの会読をすれば、必ず 私がその先生に勝つ。先生は文字を読む許ばかりでその意味は受取うけとりの悪い書生だから、之これを相手に会読の勝敗なら訳わけはない。 語りたくない、語ることを避けていることが多 く、自分の頭の中が整理できない。 自分の軸がなく、将来の見通しがつきにくい 刹那的な目標や不安に左右されやすい 自分を見失っている

21.

情動反応は消去と 制御で更新できます 情動制御は複雑な現 象。様々な戦略があ るが… 消去は安全な状況で 同じ体験を行い、 不安を感じない時に 起こります 治療の目標は、心理的行動的回避を減らすこと (虫食いをなくすこと) 不安を明らかにし、解決していくこと 不安に慣れていき、受容していくこと 福澤諭吉の父は豊前ぶぜん中津奥平おくだいら藩の士族福澤百助ひゃくすけ、母は同藩士族、橋本浜右衛門はしもとはまえもんの長女、名を於順おじゅんと申し、父の身分はヤット藩主に定式じょうしきの謁見が出来ると云いうのですから足軽あしがるよりは数等宜よろしいけれども士族 中の下級、今日で云えば先まず判任官の家でしょう。藩で云う元締役もとじめやくを勤めて大阪にある中津藩の倉屋敷くらやしきに長く勤番して居ました。夫それゆえ家内残らず大阪に引越ひきこして居て、私共わたしどもは皆大阪で生れたのです。兄弟五人、総領の兄の次に女の子が三 人、私は末子ばっし。私の生れたのは天保五年十二月十二日、父四十三歳、母三十一歳の時の誕生です。ソレカラ天保七年六月、父が不幸にして病死。跡に遺のこるは母一人に子供五人、兄は十一歳、私は数かぞえ年で三つ。斯かくなれば大阪にも居られず、兄弟残らず母に連れられて藩 地の中津に帰りました。 兄弟五人中津の風に合わず扨さて中津に帰てから私の覚えて居ることを申せば、私共の兄弟五人はドウシテも中津人と一所いっしょに混和こんかすることが出来ない、その出来ないと云うのは深い由縁も何もないが、従兄弟いとこが沢山たくさんある、父方ててかたの従兄弟もあれば母方 ははかたの従兄弟もある。マア何十人と云う従兄弟がある。又近所の小供も幾許いくらもある、あるけれどもその者等ものらとゴチャクチャになることは出来ぬ。第一言葉が可笑おかしい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「そうじゃちこ」と云いう所を、私共は「そうでおます」な んと云うような訳わけで、お互に可笑おかしいから先まず話が少ない。夫それから又母は素もと中津生れであるが、長く大阪に居たから大阪の風ふうに慣れて、小供の髪の塩梅式あんばいしき、着物の塩梅式、一切大阪風の着物より外ほかにない。有合ありあいの着物を着せるから自然中 津の風とは違わなければならぬ。着物が違い言葉が違うと云う外には何も原因はないが、子供の事だから何だか人中ひとなかに出るのを気恥かしいように思おもって、自然、内に引込んで兄弟同士遊んで居ると云うような風でした。 儒教主義の教育夫れから最もう一つ之これに加えると、私の父は学者であった。普通あたりまえの漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持かねもち、加島屋かじまや、鴻こうノ池いけというような者に交際して藩債の事を司つかさどる役であるが、元 来父はコンナ事が不平で堪たまらない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという考かんがえであるに、存ぞんじ掛かけもなく算盤そろばんを執とって金の数を数えなければならぬとか、藩借はんしゃく延期の談判をしなければならぬとか云いう仕事で、今の洋学者と は大おおいに違って、昔の学者は銭を見るも汚けがれると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う訳わけであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、斯こう云うことがある。私は勿論もちろん幼少だか ら手習てならいどころの話でないが、最もう十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷くらやしきの中に手習の師匠があって、其家そこには町家ちょうかの小供も来る。其処そこでイロハニホヘトを教えるのは宜よろしいが、大阪の事だから九々の声を教え る。二二が四、二三が六。これは当然あたりまえの話であるが、その事を父が聞て、怪けしからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云いうのは以もっての外ほかだ。斯こう云いう処に小供は遣やって置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速さっそく取返せと云いって取返した 事があると云うことは、後のちに母に聞きました。何でも大変喧やかましい人物であったことは推察が出来る。その書遺かきのこしたものなどを見れば真実正銘しょうみょうの漢儒で、殊ことに堀河ほりかわの伊藤東涯いとうとうがい先生が大信心だいしんじんで、誠意誠心、屋漏おくろ うに愧はじずということ許ばかり心掛こころがけたものと思われるから、その遺風は自おのずから私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合つきあいは少く、明あけても暮れても唯ただ母の話を聞く許ばかり、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中 津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思おもって、骨肉こつにくの従兄弟いとこに対してさえ、心の中には何となく之これを目下めしたに見下みくだして居て、夫等それらの者のすること は一切咎とがめもせぬ、多勢たぜいに無勢ぶぜい、咎立とがめだてをしようと云いっても及ぶ話でないと諦あきらめて居ながら、心の底には丸で歯牙しがに掛けずに、云いわば人を馬鹿にして居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、能よく饒舌しゃべりも し、飛び廻まわり刎はね廻わりして、至極しごく活溌にてありながら、木に登ることが不得手ふえてで、水を泳ぐことが皆無かいむ出来ぬと云うのも、兎角とかく同藩中の子弟と打解うちとけて遊ぶことが出来ずに孤立した所為せいでしょう。 厳ならずして家風正し今申す通り私共の兄弟は、幼少のとき中津の人と言語風俗を殊ことにして、他人の知らぬ処に随分淋さびしい思いをしましたが、その淋しい間あいだにも家風は至極しごく正しい。厳重な父があるでもないが、母子睦むつまじく暮して兄弟喧嘩など唯ただの一度もし たことがない。のみか、仮初かりそめにも俗な卑陋びろうな事はしられないものだと育てられて、別段に教える者もない、母も決して喧やかましい六むずかしい人でないのに、自然に爾そうなったのは、矢張やはり父の遺風と母の感化力でしょう。その事実に現われたことを申せば、鳴物 なりものなどの一条で、三味線しゃみせんとか何とか云いうものを、聞こうとも思わなければ何とも思わぬ。斯様かようなものは全体私なんぞの聞くべきものでない、矧いわんや玩もてあそぶべき者でないと云う考かんがえを持て居るから、遂ついぞ芝居見物など念頭に浮んだこともな い。例えば、夏になると中津に芝居がある。祭の時には七日も芝居を興行して、田舎役者が芸をするその時には、藩から布令ふれが出る。芝居は何日なんかの間あいだあるが、藩士たるものは決して立寄ることは相成あいならぬ、住吉すみよしの社やしろの石垣より以外に行くことならぬ と云うその布令の文面は、甚はなはだ厳重なようにあるが、唯ただ一片いっぺんの御お布令だけの事であるから、俗士族は脇差わきざしを一本挟さして頬冠ほほかむりをして颯々さっさつと芝居の矢来やらいを破やぶって這入はいる。若もしそれを咎とがめれば却かえって叱しかり飛ばす と云うから、誰も怖がって咎める者はない。町の者は金を払はらって行くに、士族は忍姿しのびすがたで却て威張いばって只ただ這入はいって観みる。然しかるに中以下俗士族ぞくしぞくの多い中で、その芝居に行かぬのは凡およそ私のところ一軒位ぐらいでしょう。決して行かない。此 処ここから先さきは行くことはならぬと云いえば、一足ひとあしでも行かぬ、どんな事があっても。私の母は女ながらも遂ついぞ一口ひとくちでも芝居の事を子供に云わず、兄も亦また行こうと云わず、家内中かないじゅう一寸ちょいとでも話がない。夏、暑い時の事であるから凉すずみ には行く。併しかしその近くで芝居をして居るからと云いって見ようともしない、どんな芝居を遣やって居るとも噂にもしない、平気で居ると云うような家風でした。 成長の上、坊主にする前ぜん申す通り、亡父ぼうふは俗吏ぞくりを勤めるのが不本意であったに違いない。左されば中津を蹴飛けとばして外に出れば宜いい。所が決してソンナ気はなかった様子だ。如何いかなる事にも不平を呑のんで、チャント小禄しょうろくに安やすんじて居たのは、 時勢の為ために進退不自由なりし故でしょう。私は今でも独ひとり気の毒で残念に思います。例えば父の生前に斯こう云う事がある。今から推察すれば父の胸算きょうさんに、福澤の家は総領に相続させる積つもりで宜よろしい、所が子供の五人目に私が生れた、その生れた時は大きな療 やせた骨太ほねぶとな子で、産婆さんばの申すに、この子は乳さえ沢山たくさん呑ませれば必ず見事に育つと云うのを聞て、父が大層たいそう喜んで、是これは好いい子だ、この子が段々成長して十とおか十一になれば寺に遣やって坊主にすると、毎度母に語ったそうです。その事を母が 又私に話して、アノ時阿父おとっさんは何故なぜ坊主にすると仰おっしゃったか合点がてんが行かぬが、今御存命ごぞんめいなればお前は寺の坊様ぼうさまになってる筈はずじゃと、何かの話の端はしには母が爾そう申して居ましたが、私が成年の後のちその父の言葉を推察するに、中津 は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立て居て、何百年経たっても一寸ちょいとも動かぬと云う有様、家老の家に生れた者は家老になり、足軽あしがるの家に生れた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間あいだに挟はさまって居る者も同様、何年 経ても一寸ちょいとも変化と云いうものがない。ソコデ私の父の身になって考えて見れば、到底どんな事をしたって名を成すことは出来ない、世間を見れば茲ここに坊主と云うものが一つある、何でもない魚屋さかなやの息子が大僧正になったと云うような者が幾人いくらもある話、それ ゆえに父が私を坊主にすると云いったのは、その意味であろうと推察したことは間違いなかろう。 門閥制度は親の敵如斯こんなことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空むなしく不平を呑のんで世を去りたるこそ遺憾なれ。又初生児しょせいじの行末ゆくすえを謀はかり、之これを坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中 の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思出し、封建の門閥制度を憤いきどおると共に、亡父ぼうふの心事を察して独ひとり泣くことがあります。私の為ために門閥制度は親の敵かたきで御座る。 年十四、五歳にして始めて読書に志す私は坊主にならなかった。坊主にならずに家に居たのであるから学問をすべき筈である。所が誰も世話の為人してがない。私の兄だからと云いって兄弟の長少僅わずか十一しか違わぬので、その間は皆女の子、母も亦またたった一人ひとりで、下女下 男を置くと云いうことの出来る家ではなし、母が一人で飯めしを焚たいたりお菜さいを拵こしらえたりして五人の小供の世話をしなければならぬから、中々教育の世話などは存じ掛がけもない。云わばヤリ放はなしである。藩の風ふうで幼少の時から論語を続むとか大学を読む位くらいの 事は遣やらぬことはないけれども、奨励する者とては一人もない。殊ことに誰だって本を読むことの好すきな子供はない。私一人本が嫌いと云うこともなかろう、天下の小供みな嫌いだろう。私は甚はなはだ嫌いであったから休やすんでばかり居て何もしない。手習てならいもしなければ 本も読まない。根ねっから何にもせずに居た所が、十四か十五になって見ると、近処きんじょに知しって居る者は皆な本を読よんで居るのに、自分独ひとり読まぬと云うのは外聞がいぶんが悪いとか恥かしいとか思おもったのでしょう。夫それから自分で本当に読む気になって、田舎の塾 へ行始ゆきはじめました。どうも十四、五になって始めて学ぶのだから甚だきまりが悪い。外ほかの者は詩経しきょうを読むの書経しょきょうを読むのと云いうのに、私は孟子もうしの素読そどくをすると云う次第である。所が茲ここに奇きな事は、その塾で蒙求もうぎゅうとか孟子とか 論語とかの会読かいどく講義をすると云うことになると、私は天禀てんりん、少し文才があったのか知らん、能よく其その意味を解げして、朝の素読に教えて呉くれた人と、昼からになって蒙求などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。先生は文字を読む許ばかりでその意味は受取 うけとりの悪い書生だから、之これを相手に会読の勝敗なら訳わけはない。 YouTubeで説明していること。自己理解、他者理解、 しなやかな思考 暴露療法:プレッシャーが低 いものから試していく方法 行動活性化:スケジュールを 決め、不安行動を楽しい行動 に置き換えるもの 福澤諭吉の父は豊前ぶぜん中津奥平おくだいら藩の士族福澤百助ひゃくすけ、母は同藩士族、橋本浜右衛門はしもとはまえもんの長女、名を於順おじゅんと申し、父の身分はヤット藩主に定式じょうしきの謁見が出来ると云いうのですから足軽あしがるよりは数等宜よろしいけれども士族 中の下級、今日で云えば先まず判任官の家でしょう。藩で云う元締役もとじめやくを勤めて大阪にある中津藩の倉屋敷くらやしきに長く勤番して居ました。夫それゆえ家内残らず大阪に引越ひきこして居て、私共わたしどもは皆大阪で生れたのです。兄弟五人、総領の兄の次に女の子が三 人、私は末子ばっし。私の生れたのは天保五年十二月十二日、父四十三歳、母三十一歳の時の誕生です。ソレカラ天保七年六月、父が不幸にして病死。跡に遺のこるは母一人に子供五人、兄は十一歳、私は数かぞえ年で三つ。斯かくなれば大阪にも居られず、兄弟残らず母に連れられて藩 地の中津に帰りました。 兄弟五人中津の風に合わず扨さて中津に帰てから私の覚えて居ることを申せば、私共の兄弟五人はドウシテも中津人と一所いっしょに混和こんかすることが出来ない、その出来ないと云うのは深い由縁も何もないが、従兄弟いとこが沢山たくさんある、父方ててかたの従兄弟もあれば母方 ははかたの従兄弟もある。マア何十人と云う従兄弟がある。又近所の小供も幾許いくらもある、あるけれどもその者等ものらとゴチャクチャになることは出来ぬ。第一言葉が可笑おかしい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「そうじゃちこ」と云いう所を、私共は「そうでおます」な んと云うような訳わけで、お互に可笑おかしいから先まず話が少ない。夫それから又母は素もと中津生れであるが、長く大阪に居たから大阪の風ふうに慣れて、小供の髪の塩梅式あんばいしき、着物の塩梅式、一切大阪風の着物より外ほかにない。有合ありあいの着物を着せるから自然中 津の風とは違わなければならぬ。着物が違い言葉が違うと云う外には何も原因はないが、子供の事だから何だか人中ひとなかに出るのを気恥かしいように思おもって、自然、内に引込んで兄弟同士遊んで居ると云うような風でした。 儒教主義の教育夫れから最もう一つ之これに加えると、私の父は学者であった。普通あたりまえの漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持かねもち、加島屋かじまや、鴻こうノ池いけというような者に交際して藩債の事を司つかさどる役であるが、元 来父はコンナ事が不平で堪たまらない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという考かんがえであるに、存ぞんじ掛かけもなく算盤そろばんを執とって金の数を数えなければならぬとか、藩借はんしゃく延期の談判をしなければならぬとか云いう仕事で、今の洋学者と は大おおいに違って、昔の学者は銭を見るも汚けがれると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う訳わけであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、斯こう云うことがある。私は勿論もちろん幼少だか ら手習てならいどころの話でないが、最もう十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷くらやしきの中に手習の師匠があって、其家そこには町家ちょうかの小供も来る。其処そこでイロハニホヘトを教えるのは宜よろしいが、大阪の事だから九々の声を教え る。二二が四、二三が六。これは当然あたりまえの話であるが、その事を父が聞て、怪けしからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云いうのは以もっての外ほかだ。斯こう云いう処に小供は遣やって置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速さっそく取返せと云いって取返した 事があると云うことは、後のちに母に聞きました。何でも大変喧やかましい人物であったことは推察が出来る。その書遺かきのこしたものなどを見れば真実正銘しょうみょうの漢儒で、殊ことに堀河ほりかわの伊藤東涯いとうとうがい先生が大信心だいしんじんで、誠意誠心、屋漏おくろ うに愧はじずということ許ばかり心掛こころがけたものと思われるから、その遺風は自おのずから私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合つきあいは少く、明あけても暮れても唯ただ母の話を聞く許ばかり、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中 津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思おもって、骨肉こつにくの従兄弟いとこに対してさえ、心の中には何となく之これを目下めしたに見下みくだして居て、夫等それらの者のすること は一切咎とがめもせぬ、多勢たぜいに無勢ぶぜい、咎立とがめだてをしようと云いっても及ぶ話でないと諦あきらめて居ながら、心の底には丸で歯牙しがに掛けずに、云いわば人を馬鹿にして居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、能よく饒舌しゃべりも し、飛び廻まわり刎はね廻わりして、至極しごく活溌にてありながら、木に登ることが不得手ふえてで、水を泳ぐことが皆無かいむ出来ぬと云うのも、兎角とかく同藩中の子弟と打解うちとけて遊ぶことが出来ずに孤立した所為せいでしょう。 厳ならずして家風正し今申す通り私共の兄弟は、幼少のとき中津の人と言語風俗を殊ことにして、他人の知らぬ処に随分淋さびしい思いをしましたが、その淋しい間あいだにも家風は至極しごく正しい。厳重な父があるでもないが、母子睦むつまじく暮して兄弟喧嘩など唯ただの一度もし たことがない。のみか、仮初かりそめにも俗な卑陋びろうな事はしられないものだと育てられて、別段に教える者もない、母も決して喧やかましい六むずかしい人でないのに、自然に爾そうなったのは、矢張やはり父の遺風と母の感化力でしょう。その事実に現われたことを申せば、鳴物 なりものなどの一条で、三味線しゃみせんとか何とか云いうものを、聞こうとも思わなければ何とも思わぬ。斯様かようなものは全体私なんぞの聞くべきものでない、矧いわんや玩もてあそぶべき者でないと云う考かんがえを持て居るから、遂ついぞ芝居見物など念頭に浮んだこともな い。例えば、夏になると中津に芝居がある。祭の時には七日も芝居を興行して、田舎役者が芸をするその時には、藩から布令ふれが出る。芝居は何日なんかの間あいだあるが、藩士たるものは決して立寄ることは相成あいならぬ、住吉すみよしの社やしろの石垣より以外に行くことならぬ と云うその布令の文面は、甚はなはだ厳重なようにあるが、唯ただ一片いっぺんの御お布令だけの事であるから、俗士族は脇差わきざしを一本挟さして頬冠ほほかむりをして颯々さっさつと芝居の矢来やらいを破やぶって這入はいる。若もしそれを咎とがめれば却かえって叱しかり飛ばす と云うから、誰も怖がって咎める者はない。町の者は金を払はらって行くに、士族は忍姿しのびすがたで却て威張いばって只ただ這入はいって観みる。然しかるに中以下俗士族ぞくしぞくの多い中で、その芝居に行かぬのは凡およそ私のところ一軒位ぐらいでしょう。決して行かない。此 処ここから先さきは行くことはならぬと云いえば、一足ひとあしでも行かぬ、どんな事があっても。私の母は女ながらも遂ついぞ一口ひとくちでも芝居の事を子供に云わず、兄も亦また行こうと云わず、家内中かないじゅう一寸ちょいとでも話がない。夏、暑い時の事であるから凉すずみ には行く。併しかしその近くで芝居をして居るからと云いって見ようともしない、どんな芝居を遣やって居るとも噂にもしない、平気で居ると云うような家風でした。 成長の上、坊主にする前ぜん申す通り、亡父ぼうふは俗吏ぞくりを勤めるのが不本意であったに違いない。左されば中津を蹴飛けとばして外に出れば宜いい。所が決してソンナ気はなかった様子だ。如何いかなる事にも不平を呑のんで、チャント小禄しょうろくに安やすんじて居たのは、 時勢の為ために進退不自由なりし故でしょう。私は今でも独ひとり気の毒で残念に思います。例えば父の生前に斯こう云う事がある。今から推察すれば父の胸算きょうさんに、福澤の家は総領に相続させる積つもりで宜よろしい、所が子供の五人目に私が生れた、その生れた時は大きな療 やせた骨太ほねぶとな子で、産婆さんばの申すに、この子は乳さえ沢山たくさん呑ませれば必ず見事に育つと云うのを聞て、父が大層たいそう喜んで、是これは好いい子だ、この子が段々成長して十とおか十一になれば寺に遣やって坊主にすると、毎度母に語ったそうです。その事を母が 又私に話して、アノ時阿父おとっさんは何故なぜ坊主にすると仰おっしゃったか合点がてんが行かぬが、今御存命ごぞんめいなればお前は寺の坊様ぼうさまになってる筈はずじゃと、何かの話の端はしには母が爾そう申して居ましたが、私が成年の後のちその父の言葉を推察するに、中津 は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立て居て、何百年経たっても一寸ちょいとも動かぬと云う有様、家老の家に生れた者は家老になり、足軽あしがるの家に生れた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間あいだに挟はさまって居る者も同様、何年 経ても一寸ちょいとも変化と云いうものがない。ソコデ私の父の身になって考えて見れば、到底どんな事をしたって名を成すことは出来ない、世間を見れば茲ここに坊主と云うものが一つある、何でもない魚屋さかなやの息子が大僧正になったと云うような者が幾人いくらもある話、それ ゆえに父が私を坊主にすると云いったのは、その意味であろうと推察したことは間違いなかろう。 門閥制度は親の敵如斯こんなことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空むなしく不平を呑のんで世を去りたるこそ遺憾なれ。又初生児しょせいじの行末ゆくすえを謀はかり、之これを坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中 の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思出し、封建の門閥制度を憤いきどおると共に、亡父ぼうふの心事を察して独ひとり泣くことがあります。私の為ために門閥制度は親の敵かたきで御座る。 年十四、五歳にして始めて読書に志す私は坊主にならなかった。坊主にならずに家に居たのであるから学問をすべき筈である。所が誰も世話の為人してがない。私の兄だからと云いって兄弟の長少僅わずか十一しか違わぬので、その間は皆女の子、母も亦またたった一人ひとりで、下女下 男を置くと云いうことの出来る家ではなし、母が一人で飯めしを焚たいたりお菜さいを拵こしらえたりして五人の小供の世話をしなければならぬから、中々教育の世話などは存じ掛がけもない。云わばヤリ放はなしである。藩の風ふうで幼少の時から論語を続むとか大学を読む位くらいの 事は遣やらぬことはないけれども、奨励する者とては一人もない。殊ことに誰だって本を読むことの好すきな子供はない。私一人本が嫌いと云うこともなかろう、天下の小供みな嫌いだろう。私は甚はなはだ嫌いであったから休やすんでばかり居て何もしない。手習てならいもしなければ 本も読まない。根ねっから何にもせずに居た所が、十四か十五になって見ると、近処きんじょに知しって居る者は皆な本を読よんで居るのに、自分独ひとり読まぬと云うのは外聞がいぶんが悪いとか恥かしいとか思おもったのでしょう。夫それから自分で本当に読む気になって、田舎の塾 へ行始ゆきはじめました。どうも十四、五になって始めて学ぶのだから甚だきまりが悪い。外ほかの者は詩経しきょうを読むの書経しょきょうを読むのと云いうのに、私は孟子もうしの素読そどくをすると云う次第である。所が茲ここに奇きな事は、その塾で蒙求もうぎゅうとか孟子とか 論語とかの会読かいどく講義をすると云うことになると、私は天禀てんりん、少し文才があったのか知らん、能よく其その意味を解げして、朝の素読に教えて呉くれた人と、昼からになって蒙求などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。先生は文字を読む許ばかりでその意味は受取 うけとりの悪い書生だから、之これを相手に会読の勝敗なら訳わけはない。 →心は多数の要素で構成されているため、治療は無数 の発見や訂正によってなされる

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様々な戦略、何を学ぶか? いつものスライドが続きます… 学習のピラミッド。根拠は不明ですが 講義 読書 最適な学習プログラムを作成し、実行するのが自助会(ない し勉強会)の目的である。 精神医学/心理学/科学哲学・ロジカルシンキング/常識など 扱わないが役立つもの:歴史、文学、哲学、宗教、数学、科 学、運動や音楽など 何を学習するか? 自己理解、他者理解、しなやかな思考に関すること 精神医学〜心理学、社会常識全般、メタ認知を高めるものなど ビデオ学習/YouTube グループ討論/座談会 自ら体験/カウンセリング/転移 教える/治療する側になる ただ診察を受けるより、自分から予習してから受診し た方が効果が高い(読書<YouTube)。 ワークショップやカウンセリングをした方が 治療効果が高い。 自助会でピアサポートした方が効果が高い

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治療の定義 治療とはこれらを学習し、記憶する(体得する)こと 自己理解:長所、軸、未来、過去、認知の歪み、疾患理解など 他者理解:多様性、無理解、優しい人もいる、暴力もあるなど しなやかな思考:感情や欲望、常識に支配されない。メタ認知 ←経験、他者のバリエーションを増やす→ 常識的な楽観性をまず身につけよう(知ろう) 欠点のある自分を愛する。自分を大切にする。 一部を除いて、多くの人は親切で優しく、頼ることができるも のだとわかる。世界や社会は不完全だが、そんなに悪いもので はない。 受け身でなく、主体的に生きる。人生を楽しむ。 人生を楽しむ=勝ち取ること認められることではなく、素晴ら しいものに触れたり、愛でたり、愛したり、愛されたりするこ と(皆で考えるのも面白いですね) 個人の内面を深く追求していく ↓

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各種、治療法の違い 認知への介入する手段 1、医師・心理士によるカウンセリングなど 2、福祉の人らによる生活全般への介入とか 3、自助会などのピアサポート 1 専門知識、経験がある。転移や逆転移を扱える 人数が少ない。時間が足りない。お金が高い、など 2 日中の時間を一緒に過ごし、学び直すことができる 働きながら、学校に行きながら利用することが困難 3 様々な人と交流し、多角的に学ぶことができる オンラインであれば時間の都合をつけやすい 専門知識と経験が少ない 調子が悪い人がいて、悪影響を受ける可能性がある 専門的知識を研修していくのではなく、 交流しやすいシステム・事故が起こりにくいシステムを作るべきでは?

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第3の居場所 ・診療所 ・カウンセリングルーム ・自助会 常識としての 楽観性 言葉比べ、ディベートをしたいのでは なく、治療上、最低限、必要なもの 主観 →客観 →主観2.0 客観的に物事をみるための、脳科学的 な知識、社会的な知識や経験 主観2.0からスタートすべきだが、 それができない人がいる ・常識的な楽観性の欠如? ・無意識の抵抗があるから? なぜ変化を拒む のか? 無意識への探究 哲学的な問い/なぜ生きるのか、心とは?

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常識としての 楽観性 生きる意味、価値を信じられること 愛する/愛される 助ける/助けられる 理解する/理解される

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常識としての 楽観性 傾聴7割、承認2割、質問1割 しかし、傾聴だけで治療が進むことはない

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主観 →客観 →主観2.0 変化とは? 記憶の変化、価値観や思想の変化、自己理 解の変化(自己需要) 習慣や環境の変化 主観2.0 「足し算」 愛されている 所属感、楽観性 価値観・思想の付与 主観 客観 「引き算」 ・バイアス:白黒思考 ・転移、投影など 未知を既知に

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なぜ変化を拒む のか? 変化を望んでいるにもかかわらず、抵抗に合う 主観2.0 主観 抵抗を解決するために 認知の歪みを指摘する、解釈 する (問題、無意識、転移) 抵抗 抵抗 客観 行動活性化する 集団で動く、ルールで動く 我慢して動くなど

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問題解決のワークシート 記憶と学習 を埋める作業 予測する脳 内部活動 物理的現実 外部刺激 体質と体調

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自傷行為について

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自傷行為のメカニズム 「脳内麻薬依存症」 ストレスが溜まる 不安が溜まる 一時的に不安が落ち 着く。冷静になる ・スッキリする ・ホッとする ・生きている実感が湧く 痛みに反応して脳内麻薬 (エンケファリン)が放 出される 頭が真っ白になる 自傷行為をする

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カウンセリングをする 自分の気持ちを言葉にする練習をする マインドフルネスを身につける 誰にか相談する 一時的に不安が落ち 着く。冷静になる きちんと傷のケアをする 責めるのではなく、傾聴する 本人の辛い気持ちを肯定する ストレスが溜まる 不安が溜まる 具体的な 対処方法 自傷行為をする リラックスできることをする 音楽を聴く/お風呂に入る マインドフルネスを試す 気持ちを書く/相談する 頭が真っ白になる 氷をあてる、輪ゴムでパチン サインペンで傷を書いてみる 大声を出す、歌う 体を動かす、走る、紙をやぶる テトリスやゲームする

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自傷行為をするのは どんな人に多い? 【記憶と学習】 自分を無価値だと思っている 虐待経験、性的虐待 教育的虐待、厳しすぎる環境 ネグレクト 暴力の目撃、両親の不仲 親のアルコール依存症 いじめ、友達がいない 成功体験が少ない 助けてくれる環境に恵まれなかった 【体質や体調】 10代の10人に1人は自傷経験あり 精神的疲労、鬱状態 知的な問題、境界知能、神経発達症など 精神疾患(不安障害、境界性PD、摂食障害、解 離性障害…) 自分の気持ち・困りごとを言語化していくのが 苦手 助けてが言えない 自傷そのものにアプローチするの ではなく、背景にある疾患や記憶、 社会的問題にアプローチしていくのが 治療です。

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自傷行為は「甘え」 ではない 死ぬ気がないから大丈夫。ではない。自殺率は高まっていく かまって欲しい、アピール行為ではない。最初は隠れてやっている その後、ファッションのように見せびらかす人もいるが…。 それは別の疾患によるもの(境界性PD,演技性PDなど)である 境界性PD、ADHDの人は衝動性が高く、言語化も苦手な人も多 いため、「苦しい」「寂しい」などの表現ができず、「死にた い」しか言えないこともある。 #ウェルテル効果 #パパゲーノ効果 SNS時代において、死にたいなどの言葉は他者に影響を与え ることをしっかり説明することが大事

36.

自傷行為 の 治療法 支持的傾聴が基本 意見を押し付けるのではなく、愚痴を聞き続けるのが基本。 自傷をせざるを得ない背景があり、これらは現実的に解決困難であることも多い。例えば虐待 の問題で、程度が軽く、親子を引き離せないなど。 まずは「生き延びること」を優先。本人の成熟に伴い、解決方法が増えることもある。 安心できる居場所になればいい。 治療者が変わっても構わない。治療構造を崩してでも、関係を維持しようとするのは苦しい。 医療や福祉のネットワークに引っ掛かっていればいい。 解決策のない現実を一緒に耐えることができるか? 自傷行為をよく引き起こす、境界性PD、神経発達症、複雑性PTSD、摂 食障害などの治療は今回扱いません。

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そもそも精神疾患とは? 精神疾患とは? 身体的な障害を認めないが、通常の訓練および教育によっても社会適応困難な人たち 精神医学的なアプローチを行う 療養、刺激からの遮断 薬物治療 電気、磁場利用 腸内環境、栄養療法 光刺激 運動、マインドフルネス 認知への介入する手段 1、医師・心理士によるカウンセリングなど 2、福祉の人らによる生活全般への介入とか 3、自助会などのピアサポート 社会適応困難とは? 「予測する脳」が機能してい ない、不十分である人たち 手帳、生活保護、年金 就労支援 自立訓練 就労継続支援 自助会 障害者雇用など 自傷をひきおこす疾患について 薬物療法があまり効かず、精神療法(カウンセリング)が治療の主体になる が、言語的介入にも限界があり、治療が難しいことが多い。また解決困難な社会的問題も多い

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自傷の脳 現実 自傷=成功 認知の歪み 大きなズレ 自傷する 落ち着く 誤った予測 記憶 (経験/知識) 神経の配線 脳内麻薬が 出やすくなっている 悪循環

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治療は2つを同時に行う ←経験、他者のバリエーションを増やす→ 常識的な楽観性をまず身につけよう(知ろう) 欠点のある自分を愛する。自分を大切にする。 (ニューロダイバーシティ) 一部を除いて、多くの人は親切で優しく、頼ることができるも のだとわかる。世界や社会は不完全だが、そんなに悪いもので はない。 受け身でなく、主体的に生きる。人生を楽しむ。 人生を楽しむ=勝ち取ること認められることではなく、素晴ら しいものに触れたり、愛でたり、愛したり、愛されたりするこ と(皆で考えるのも面白いですね) 正しい知識を持ち合わせていないこ ともあり、カウンセリングだけでな く、ティーチングも大事です 個人の内面を深く追求していく ↓ 治療とはこれらを学習し、記憶する(体得する)こと 自己理解:長所、軸、未来、過去、認知の歪み、疾患理解など 他者理解:多様性、無理解、優しい人もいる、暴力もあるなど しなやかな思考:感情や欲望、常識に支配されない。メタ認知

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まとめ 自傷行為は 依存行為であること を理解する 現実的限界もあり 生き延びることが 第一目標 自傷行為は 様々な背景があり、 とても複雑で 理解は難しい 自傷行為は かまって欲しい アピールではない 自分を好きになる 多様性を理解する 具体的な対応を 覚えて、なんとか 生き延びる